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ショートストーリー

縦書き

二日目の依頼

東和資材の総務課で、村瀬は月末の転記を十分で終わらせていた。前任者は半日かけていた作業だ。  仕掛けは、自分で書いた小さなマクロだった。入門書は前半しか読んでいない。分からないところは、そのつど検索して継ぎはぎした。人に見せるような代物ではない、と本人は思っている。  四月、社内の掲示板に「困りごと相談」という欄ができた。誰でも「これ、できます」と書き込める。  村瀬は三晩迷った。書けることが少なすぎる。Excelの転記と集計と、定型の帳票。それだけだ。 「出すなら、ちゃんとしてからのほうがいいよ」  情報システム課の篠原は、いつもそう言う。四十七歳。机の上には、付箋で膨らんだPythonの入門書がある。来期には基幹業務を全部自動化する、と三年前から言っている。 「中途半端なものを社内に出して、事故が起きたら誰が責任を取るの。一通り身につけてからでも遅くない」  正論だった。村瀬は、できることを三行だけ書いて、投稿ボタンを押した。言い返せなかった分を、指で押したような気がした。  依頼は二日目に来た。営業二課の主任、宮田からだった。 「Excelじゃないんですけど、いいですか」  毎朝、Outlookに注文のメールが八十通ほど届く。本文の品番と数量を、受注表に手で写している。一時間かかる。写し間違いで、先月は二度、誤出荷を出した。 「メールって、できるものなんですか」  村瀬は「調べて、明日お返事します」とだけ答えた。Outlookを自動で動かしたことは、一度もない。  その日の夕方、篠原の席に寄った。 「断りなさい。やったことないんでしょう。受注を取りこぼしたら、営業の信用問題だよ」 「ちゃんと身につけてから、というのは、どこまでですか」 「……一通り、だよ」  村瀬は、付箋だらけの本の背を見た。Pythonの本だった。目次にOutlookの章はない。 「その一通りに、Outlookは入っていますか」  篠原は黙った。村瀬も、言ってから少し後悔した。篠原の心配は、半分は正しいのだ。  その晩、調べて分かった。ExcelのマクロからOutlookを呼び出せる。Outlookの側にもマクロの仕組みがある。どちらも同じ会社の製品だった。知らなかっただけで、扉は最初からつながっていた。  三日かけた。昼休みと、帰ってからの二時間。  そして一つだけ、篠原の言葉を仕組みに入れた。読み取れたメールは「処理済み」のフォルダへ移す。品番が読めなかったものは、受注表に赤く残して、受信箱からは動かさない。機械が取りこぼした分は、人が拾う。完璧でなくていい。取りこぼしが見えればいい。  翌週、宮田から短いメッセージが来た。 「一時間が五分になりました。赤いのは毎朝二、三通です。それくらい、見ます」  半年後、掲示板の村瀬の欄には「対応済み 十四件」とあった。  見返して、村瀬は気づいた。最初に書いた三行に当てはまる依頼は、一件もなかった。来たのは、メールの仕分け、勤怠の突き合わせ、取引先から届くPDFの読み取り。どれも、依頼が来てから覚えたことだった。  ある日の夕方、篠原が村瀬の机まで来た。 「Outlookのあれ、どうやって調べたの」 「宮田さんに、何に困っているのか聞いて、それだけ調べました」  篠原は「そうか」と言って、席に戻った。付箋だらけの本は、今日も三章のあたりで開かれている。ただ、その横で、掲示板の投稿画面が開いていた。まだ一行目しか書かれていない。  何を学べばいいのかは、どの本にも書いていなかった。書いてあったのは、二日目に届いた一通のメールだった。

論考

縦書き

準備はそこそこで出す——学ぶべきことは、最初の依頼が決める

序:準備が「安心」に変わるとき

新しい仕事に踏み出す前、人はたいてい準備を重ねる。言語を一つ覚えきってから、資格を取ってから、実績らしいものを作ってから。準備は不安を和らげる。だが、準備が安心のために続けられるようになると、終わりがなくなる。「一通り身につける」の「一通り」は、誰も定義していないからだ。準備の量を増やすことと、成果に近づくことは、同じではない。
問い:あなたがいま続けている準備に、「ここまでで出す」という終わりの線は引かれているか。

展開:依頼は、予想と違う場所から来る

自分の小さな技術を外に出してみると、たいてい予想と違う依頼が来る。VBAで表計算の自動化を頼まれると思っていたら、最初に来たのはメールソフトの自動化だった、という類の話は珍しくない。ここで分かるのは、市場の需要は手元の準備リストに沿っては届かない、ということだ。何を深く学ぶべきかは、依頼という具体的な困りごとに触れて初めて決まる。インプットを先に積むほど、その多くは使われずに終わる。逆に、依頼を受けてから調べる知識は、目的がはっきりしている分、驚くほど速く身につく。
問い:過去一年で学んだことのうち、実際の依頼や仕事で使われたものは何割か。

反証:「早く出せ」は無責任ではないか

もちろん反論はある。準備不足のまま出せば、品質事故を起こす。受けた相手に迷惑がかかる。さらに言えば、「準備はそこそこで飛び込め」という話は、うまくいった人の回想であることが多い。飛び込んで失敗し、黙って去った人の声は残らない。生存者の語りだけで判断するのは危うい。慎重な人が「一通り身につけてから」と言うとき、そこには相手への責任感がある。これを怠慢と切り捨てるのは公平ではない。
問い:「早く出して成功した例」の裏に、同じやり方で失敗した例がどれだけあるかを、あなたは知っているか。

再構成:「そこそこ」の中身を分解する

では、早く出すことと責任は両立しないのか。分解すると、「そこそこの準備」には三つの中身がある。第一に、自分が実際に使って役立った小さな道具があること。何もないところから出すのではなく、手元にあるもので始める。第二に、失っても耐えられる大きさで受けること。最初は小さな依頼を、取りこぼしが起きても致命傷にならない範囲で引き受ける。第三に、取りこぼしが見える仕組みを入れること。自動化が拾えなかったものを人が確認できるようにしておけば、完璧でなくても事故にはなりにくい。慎重派の懸念は、出すのをやめる理由ではなく、仕組みに組み込むべき要件だと考えればいい。そのうえで、来た依頼を調べ切る。準備の総量ではなく、受けたあとに調べ切る覚悟が、信頼の土台になる。
問い:あなたの「まだ出せない理由」は、仕組みで補える種類のものか、それとも本当に越えられない壁か。

示唆:件数は、あとからついてくる

最初の一件を受けた時点では、誰もが素人に毛が生えた程度だ。特別な勉強をしたわけでも、誰より詳しかったわけでもない。それでも依頼を一件ずつ調べ切っていくと、ある時点で積み上がった件数そのものが、後から来る人には越えにくい壁になる。差をつけるのは、最初の準備の厚さではない。最初の一件を、どれだけ早く受けたかだ。準備はそこそこでいい。そこそこを、早く外に出すことのほうが難しい。
問い:もし今週、できることを三行だけ書いて外に出すとしたら、その三行は何か。

実務への含意

  • 準備には「ここまでで出す」という期限と範囲を先に決め、安心のための準備を際限なく続けない
  • 最初は失っても耐えられる大きさで受け、自動化や成果物には「取りこぼしが人に見える」仕組みを必ず入れる
  • 依頼が来てから学ぶことを前提にし、依頼主に「何に困っているか」を具体的に聞いて、その範囲を調べ切る

参考文献

  • 『小さく賭けろ! 世界を変えた人と組織の成功の秘密』ピーター・シムズ(日経BP)
  • 『エフェクチュエーション:市場創造の実効理論』サラス・サラスバシー(碩学舎)
  • 『リーン・スタートアップ ムダのない起業プロセスでイノベーションを生みだす』エリック・リース(日経BP)

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