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ショートストーリー

縦書き

棚を歩く人

「理由は三つあります」 佐伯遥斗がそう切り出すと、会議室の空気が少しだけ締まる。文具メーカー・丸野文具の企画部で六年目。話し方の本で覚えたこの型を、彼は武器にしてきた。第一に、第二に、第三に。言い切って、以上です。それだけで「仕事ができる人」に見える。 その日の議題は、彼が温めてきた新商品だった。紙のノートに書いた文字を、スマホで撮るだけで整理できる学習ノート。 「第一に、小中学生のタブレット学習が当たり前になりました。第二に、紙は時代遅れだという保護者の声がネットで増えています。第三に、新聞でも“デジタルで学力が伸びる”という特集が組まれていました」 常務の安西が資料から目を上げた。 「二つ目の声は、どこの誰の声だ」 「……SNSと、比較サイトの口コミです」 「三つ目の特集は私も読んだ。同じ月に、別の新聞は“手で書かないと覚えない”という研究を大きく扱っていた。それは読んだか」 佐伯は答えられなかった。三つの理由は、三つとも同じ方向を向いていた。型は整っていたが、その下に床がなかった。 「型はいい。だが、三つしか知らない人の三つは、ただの“全部”だ」 提案は差し戻しになった。 席に戻ると、隣の島で嘱託の戸川が湯呑みを洗っていた。定年後に再雇用された六十五歳で、会議ではほとんど口を開かない。それでも、たまに一言話すと、議論はそこで静かに決まる。佐伯は前から不思議だった。 「戸川さんは、どこで勉強してるんですか」 「土曜に図書館へ行く。分類の0番の棚から9番の棚まで、毎週一段ずつ歩くだけだよ」 「今どき図書館ですか。調べたいことなら検索すれば早いのに」 「検索は、君が見たいものを見せてくれる。新聞は新聞の見せたいものを、テレビはテレビの見せたいものを見せる」 「じゃあ、図書館なら偏らないんですね」 戸川は首を振った。 「図書館も偏るよ。新刊の棚はよく借りられる本で埋まるし、選ぶ人にも癖がある。偏りのない場所なんて、どこにもない。だから一つの棚に住まないことだ。どこも偏っていると知ったうえで、あちこちの棚を歩いて、反対側の一冊を足していく」 「そんな時間、ないですよ。会議の型を磨くほうが早い」 「早いね。でも、三十の中から選んだ三つと、三つしかない三つは、聞いている人にはすぐ分かる」 腹は立ったが、言い返す材料もなかった。 次の土曜、佐伯は市立図書館の0番の棚の前に立った。総記、哲学、歴史。社会科学の棚まで来たとき、彼は自分の足が教育の棚へまっすぐ向かおうとしているのに気づいた。見たい棚にしか、足が向かない。検索と同じことを、自分の足がしていた。 彼は逆に、普段なら素通りする棚で立ち止まるようにした。医学の棚では、手書きと記憶の関係を調べた本を見つけた。福祉の棚では、画面を長く見ていられない子どもがいることを知った。歴史の棚では、「新しい道具が学びを変える」という熱が何度も起き、そのたびに揺り戻しが来たことを読んだ。帰り道には同じ話題を逆の立場から検索し、家では自分がとっている新聞と、実家から送ってもらった別の新聞を並べて読んだ。 三週間で、ノートは理由と反論でいっぱいになった。三つどころではなかった。 一か月後、佐伯は同じ会議室で、同じように切り出した。 「理由は三つあります」 今度の三つは、手で書くことを残すこと、画面を見る時間を減らすこと、整理だけをデジタルに任せること。紙かデジタルかではなく、その間に置く商品に変わっていた。 安西が、前と同じ角度で切り込んだ。 「紙は古いという声もあるだろう」 「あります。その声も、反対の研究も読みました。どちらか片方に賭けると、どちらかの家庭を必ず失います」 安西はしばらく黙り、それから言った。 「その三つは、どうやって選んだ」 「二十いくつの中からです」 提案は、一学年分だけの試験販売として通った。大成功とは言えない。だが、差し戻しではなかった。 会議のあと戸川の島をのぞくと、彼は相変わらず湯呑みを洗っていた。 「今度の土曜は何番の棚ですか」 「7番。芸術だよ。君は」 佐伯は少し考えて、まだ一度も立ち止まったことのない番号を口にした。 口にする三つの後ろには、いつも、言わなかった棚が並んでいる。

論考

縦書き

話し方の前に、棚を歩く――偏りを知ったうえで知識の土台をつくる

序:「三つの理由」は表出の技術である

「言いたいことを三つに絞る」「理由を三つ挙げる」という話し方は、たしかに効く。話し手は余計なものを詰め込まなくなり、聞き手は構造をつかみやすい。ただし、これは何をどう見せるかという表出の技術である。何を見せられるかは、その人が持っている知識の土台で決まる。三つの理由が三つとも同じ方向を向いていれば、型が整っているほど、かえって土台の薄さが目立つ。
問い:自分が最近使った「三つの理由」は、いくつの候補から選んだものか数えられるか。

展開:どの情報源にも偏りがある

知識の土台をつくるとは、特定の分野を深く掘ること以上に、偏りなく見渡すことである。ところが、情報源はどれも中立ではない。検索やSNSは、利用者が好むものを優先して出す。新聞やテレビには編集の方針がある。図書館も例外ではない。選書をする人の判断、利用者のリクエスト、よく借りられる本で埋まる新刊棚。ニューメディアもオールドメディアも、それぞれの癖を持っている。

だから「正しい情報源」を一つ探すのは筋がよくない。偏っていると知ったうえで複数の情報源を横断し、互いの偏りを打ち消していくほうが現実的である。図書館の分類体系は、この点で役に立つ。普段は近寄らない領域の棚が、物理的に目の前に並ぶからだ。同じ主題について立場の異なる複数の本を読み比べる、というよく知られた読書法も、同じ発想に立っている。
問い:先月読んだ情報の出どころを三種類以上挙げられるか。それらは同じ立場からのものではないか。

反証:網羅には時間がかかり、終わりもない

もっとも、網羅には時間がかかる。会議は待ってくれず、準備に時間をかけているうちに発言の機会を失うこともある。そもそも完全に偏りのない知識など存在しない。「土台を固めてから話す」という姿勢は、話さないことの言い訳にもなりうる。表出の型を先に身につけ、走りながら中身を足すほうが速い、という考え方にも一理ある。
問い:準備が足りないことを理由に発言を見送ったことが、この一か月で何回あったか。

再構成:網羅は「状態」ではなく「習慣」

この反論に対する答えは、網羅を完成させるべき状態ではなく、続ける習慣として扱うことである。毎週少しずつ普段行かない棚を歩く。自分の主張と反対側の資料を一つ足す。それだけで、土台は時間とともに厚くなる。

そう考えると、型と土台は対立しない。土台が厚い人ほど、多くの候補から三つを選ぶことができ、型はその選択を見せる器になる。多くの中から選ばれた三つは、反論を受けても崩れにくい。反対側をすでに読んでいるからである。
問い:自分の主張に対するいちばん強い反論を、出どころとともに一つ挙げられるか。

示唆:問いの立て方を変える

人を育てる場面では、話し方の研修より先に、情報源の幅を広げる習慣を身につけさせたい。会議では、「理由は何か」に加えて、「その理由はいくつの候補から選んだか」「反対側の資料は何を読んだか」と問う。この問いが当たり前になれば、型だけが一人歩きすることは減っていく。
問い:チームの会議で、反対側の資料を求める質問が最後に出たのはいつか。

実務への含意

  • 提案の前に、主張と反対の立場の資料を最低一つ読み、反論への答えを用意する
  • 情報源を「ネット・新聞・本」のように種類で分け、どれか一つに偏っていないかを月に一度点検する
  • 普段近寄らない分野の棚や媒体を、週に一度、短い時間でよいので見る習慣を持つ

参考文献

  • 『本を読む本』モーティマー・J・アドラー、チャールズ・V・ドーレン(講談社学術文庫)
  • 『独学大全』読書猿(ダイヤモンド社)
  • 『知的生活の方法』渡部昇一(講談社現代新書)

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