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ショートストーリー
逃げ道という名の滑走路
入社十五年目の春、宮田智也は開発本部の窓際席で、真新しい辞令を眺めていた。
「北海道支社への異動ね」
開発本部長の声が、フロア全体に響いた。表向きは「新拠点の立ち上げ要員」だが、誰もが知っていた。先月の新製品プレゼンで、宮田が役員の方針に異を唱えたことへの報復だと。
「受けるしかないよな」
同期の藤井が、缶コーヒーを差し出しながら言った。宮田は黙ってそれを受け取った。
住宅ローンがあった。子供は来年中学に上がる。妻は地元で働いている。すべてが東京に根を張っていた。
三日後、宮田は人事部に向かった。異動を受け入れる書類に判を押すためだ。エレベーターの中で、スマートフォンに一通のメッセージが届いた。
「宮田さん、お久しぶりです。相談があります」
送り主は、三年前に退職した後輩の桐山だった。
その夜、宮田は桐山と居酒屋で向かい合っていた。
「大阪で小さな会社を始めたんです。ニッチな産業機器の制御ソフト。おかげさまで引き合いが増えて、でも人手が足りなくて」
桐山は生ビールのジョッキを両手で包みながら続けた。
「正直に言います。宮田さんの技術が必要です。給料は今より下がります。でも、やりたいことをやれる環境は用意できます」
宮田は何も答えなかった。桐山は苦笑した。
「無理は言いません。家庭もありますし。ただ、選択肢の一つとして覚えておいてもらえれば」
帰宅すると、妻の真理子がリビングで待っていた。
「北海道の話、聞いたよ。どうするの」
宮田は、桐山からの誘いを話した。真理子は黙って聞いていた。
「私、ずっと思ってたことがあるの」
真理子が言った。
「あなた、会社の愚痴を言うとき、目が死んでる。でも技術の話をするときは、子供みたいにキラキラしてる」
宮田は何か言おうとしたが、真理子が続けた。
「私は仕事を辞められる。子供はどこでも学校がある。ローンは売れば何とかなる。問題は、あなたがどうしたいか、だけでしょ」
翌朝、宮田は開発本部長の部屋を訪ねた。
「異動の件ですが、お断りします」
部屋の空気が凍った。
「つまり、退職するということか」
「はい」
部長は眉をひそめた。
「十五年もいて、たかが異動で辞めるのか。逃げるつもりか」
宮田は、初めて部長の目をまっすぐ見た。
「はい、逃げます。ただ、どこに逃げるかは、自分で決めます」
三カ月後、宮田は大阪のオフィスビルの一室にいた。窓の外には、通天閣が小さく見える。
「宮田さん、この仕様なんですけど」
桐山が図面を持って駆け寄ってきた。宮田は老眼鏡をかけ直し、図面をのぞき込んだ。
「ここ、もう少し工夫すれば軽量化できる。試作してみよう」
その瞬間、宮田は自分の声に久しぶりの弾みがあることに気づいた。
給料は確かに下がった。名刺の肩書きも消えた。でも、胸の奥にあった重石が、いつの間にか溶けていた。
帰り道、宮田はふと空を見上げた。大阪の空は、東京より広く見えた。
逃げ道は、行き止まりではなかった。それは、滑走路だったのだ。
論考
「逃げる」を戦略に変える——流動性がもたらすイノベーションの条件
**序:逃げることの再定義**
「逃げる」という言葉には、日本社会において否定的なニュアンスが付きまとう。しかし、経済学やキャリア論の観点から見れば、逃げるとは「選択肢を行使する」ことに他ならない。ある環境で成果が出せないとき、別の環境に移動する能力は、個人にとっても組織にとっても重要な資産である。アメリカではシリコンバレーで失敗した起業家がニューヨークやオースティンで再起を図ることが珍しくない。この流動性が、挑戦を促し、イノベーションの土壌を作っている。では、日本において同様の流動性を実現するには何が必要か。
【検証可能な問い】転職経験者とそうでない者の間で、新規事業提案件数に有意な差はあるか。
**展開:流動性がもたらす三つの効果**
流動性が高い社会では、三つの効果が期待できる。第一に、失敗のコストが下がる。一度のミスでキャリアが終わらないと分かれば、人はより大胆な挑戦ができる。第二に、知識の越境が起きる。異なる組織や地域を経験した人材は、複数の文脈を横断する視点を持つ。第三に、組織の自浄作用が働く。優秀な人材が流出する組織は、その原因を改善せざるを得ない。逆に、人が動かない社会では、問題が内部で固定化し、外部から見えにくくなる。
【検証可能な問い】人材流動性の高い業界と低い業界で、従業員満足度や組織改革の頻度に差は見られるか。
**反証:流動性の限界と副作用**
ただし、流動性万能論には注意が必要だ。第一に、逃げる選択肢はすべての人に開かれているわけではない。経済的な制約、家族の事情、専門性の市場価値など、移動のハードルは人によって大きく異なる。第二に、頻繁な移動は深い専門性の形成を妨げる可能性がある。ある領域で卓越した成果を出すには、長期にわたる没入が必要な場合もある。第三に、受け入れ側の準備がなければ、移動者は孤立する。制度やコミュニティの支援なしに、個人の意思だけで流動性は実現しない。
【検証可能な問い】同一組織に長期在籍した専門家と、複数組織を経験した専門家の間で、イノベーション創出の質や量に違いはあるか。
**再構成:「逃げ道の設計」という発想**
重要なのは、逃げることそのものではなく、逃げられる状態を設計することである。これを「オプション価値」と呼ぶ。実際に移動しなくても、移動できるという認識が心理的な余裕を生み、現在の環境でより主体的に行動できるようになる。企業においても、副業を許可したり、社内公募制度を整えることで、従業員に「逃げ道」を用意できる。これは離職を促すのではなく、むしろ組織への主体的関与を高める施策になりうる。
【検証可能な問い】副業や社内異動制度を導入した企業で、離職率と従業員エンゲージメントはどのように変化したか。
**示唆:選択肢を持つ者の責任**
流動性は自由をもたらすが、自由には責任が伴う。どこに逃げるかを自分で決めるということは、その結果も自分で引き受けることを意味する。また、逃げる選択肢を持つ者は、持たない者への想像力を忘れてはならない。流動性の恩恵を一部の人だけが享受する社会は、分断を深める。本当に求められているのは、すべての人に逃げ道という滑走路を用意することである。
【検証可能な問い】流動性支援策(移住補助、職業訓練など)の恩恵は、所得階層によってどの程度偏っているか。
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**実務への含意**
- 自社の人材が「いつでも辞められる」と感じられる環境を整えることで、逆説的に定着率と主体性が向上する可能性がある
- 転職や異動の経験者を積極的に採用し、知識の越境効果を組織に取り込む
- 個人は、実際に転職するかどうかに関わらず、市場価値を定期的に確認し、選択肢を維持する習慣を持つ
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**参考文献**
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