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「想定外」という免罪符 ―― すべてが想定外の世界で、なぜ私たちは呼吸するように学ぶのか
## はじめに
「想定外でした」という言葉を、私たちは日に何度も耳にします。大きな事故の謝罪会見でも、職場のちょっとした失敗でも、あるいは飲み会の「いやあ、それは想定外だったわ」という軽口でも、この言葉はあらゆる場面に顔を出します。便利な言葉です。あまりに便利なので、私たちはその便利さの中身をほとんど点検しないまま使い回しています。
この論考で考えてみたいのは、そのひと言の奥にひっそりと隠れている、ひとつの前提です。「想定外だから対応できなかった」という言い回しは、裏を返せば「想定内であれば対応できたはずだ」と言っているわけです。つまりここには、世界は「想定できるもの」と「想定できないもの」にきれいに二分できる、という静かな信念が横たわっています。
私はこの二分法そのものに、長く違和感を抱いてきました。本当に世界は、そんなふうに前もって二つに切り分けられるのでしょうか。そして、もし切り分けられないのだとしたら、私たちが日々口にする「学び続けなさい」「リスキリングしなさい」という掛け声は、いったい何を意味しているのでしょうか。
本論考では、まず「想定外」という言葉がなぜこれほど万能に使えてしまうのかを確認し(第1章)、続いてその前提である二分法が論理的に崩れていることを示します(第2章)。そのうえで、崩れているはずの理屈をなぜ社会が手放さないのか(第3章)、すべてが想定外だとしたら私たちは何を磨くべきなのか(第4章)、そしてその先に見えてくる「学習=呼吸」という捉え直し(第5章)へと、一本の道を辿っていきます。残酷な真実を残酷に届ける必要はありませんが、核心からは目を逸らさずに進みたいと思います。
## 第1章:「想定外」という言葉の、不思議な万能性
まず、この言葉が現実にどう使われているかを整理してみます。観察してみると、「想定外」には性質の異なる二つの用法が混在していることに気づきます。
ひとつは、文字どおりの想定外です。誰がどう備えても予見しきれなかった天変地異や、これまでの常識を根底から覆すような事態。ここで「想定外でした」と言われれば、私たちも「それは確かに仕方がない」と納得します。同情の余地が十分にあるからです。
もうひとつは、「考えたくなかった」を「考えられなかった」にすり替える用法です。可能性としてはゼロではなかった。少し立ち止まって考えれば見えていた。けれども確率が低いから、あるいは対処が面倒だから、考えないことにしていた。それが現実になったときに「想定外でした」と言う。これは予見の失敗ではなく、予見の放棄です。にもかかわらず、同じ「想定外」という語を使うことで、前者が持っていた免責の効果を後者へとこっそり横流ししているわけです。
ナシーム・ニコラス・タレブは『ブラック・スワン』で、私たちが「滅多に起きないが、起きれば甚大な影響を及ぼす出来事」を構造的に過小評価してしまう癖を描き出しました。私たちは過去のデータから滑らかな予測を立て、その予測が外れたときには「予測が甘かった」のではなく「現実のほうが異常だった」と語りがちです。つまり「想定外」という言葉は、しばしば自分の予測モデルの貧しさを、現実の側の責任へと付け替える装置として働きます。
ここで押さえておきたいのは、この二つの用法の境界が、実はとても曖昧だということです。どこまでが「本当に予見不可能」で、どこからが「予見を放棄しただけ」なのか。その線引きは、後から、しかも線を引く本人によって都合よく決められます。だからこそ「想定外」は万能なのです。誠実な言葉として聞こえながら、その実、責任の所在をぼかすことができる。この曖昧さこそが、次章で見る、より深い問題への入り口になります。
## 第2章:そもそも、全部が想定外である ―― 二分法の崩壊
ここで一歩踏み込みます。私が抱いてきた違和感の核心は、こうです。世界を「想定内」と「想定外」に分ける前に、そもそも私たちの人生は、最初から最後まで想定外でできているのではないか。
朝、家を出てから夜に帰り着くまで、私たちの一日は無数の予測不能で満ちています。電車の遅延、同僚の不機嫌、商談相手の気まぐれ、自分の体調、たまたま目にした一通のメール。そのどれひとつとして、前夜に完璧に「想定」できていたものはありません。私たちは厳密な意味での想定内など一度も生きたことがなく、ただ「だいたいこうなるだろう」という目安の中を、毎日その都度調整しながら歩いているだけです。
この目安は便利ですが、しょせん目安です。外れるのがむしろ常態です。だとすれば、「想定外だから対応できない」という主張は、論理として成立しません。なぜなら、その理屈を厳密に適用すれば、すべてが想定外である以上、私たちは何ひとつ対応できないことになってしまうからです。しかし現実には、私たちは毎日、想定外の連続を曲がりなりにも乗り切っています。つまり「対応できない理由」として持ち出された「想定外」は、対応できない理由になどなっていないのです。
経営学者のカール・E・ワイクは、組織が困難な状況をどう切り抜けるかを論じる中で、「センスメイキング(意味づけ)」という概念を重視しました。サトクリフとの共著『想定外のマネジメント』が示すのは、危機にあって有能に機能する組織は、完璧な事前計画を持っているから強いのではない、ということです。むしろ彼らは、失敗の兆候に敏感で、単純な決めつけを避け、現場の声を拾い、そして何より、計画が崩れた「その後」に意味を編み直す力を持っています。前もってすべてを想定する力ではなく、想定が裏切られた瞬間に立て直す力こそが、現実の修羅場を分けているのです。
ここから見えてくるのは、勝負どころが「想定の量を増やすこと」ではなく「想定が外れたときの即興力」にある、という転換です。事前に用意できる引き出しの数には限りがあります。けれども、目の前で状況が動いた瞬間に、手持ちの知識・技術・環境・人脈・経済力を総動員し、手法を組み替え、試し、失敗し、また組み替える――この動的な適応こそが、不確実な世界を渡る本当の技術です。サラス・サラスバシーが熟達した起業家たちの意思決定から抽出した「エフェクチュエーション」も、まさにこの発想に近いものです。彼らは「目的から逆算して完璧な手段を揃える」のではなく、「いま手元にある手段から、何ができるか」を起点に動きます。不確実性は、消し去るべき敵ではなく、付き合いながら利用する素材なのです。
## 第3章:なぜ社会は、成り立たない理屈を語り続けるのか
ここでひとつの疑問が浮かびます。二分法が論理的に崩れているのなら、なぜ社会はそれを手放さず、むしろ「想定内を増やし、想定外を減らそう」と私たちに説き続けるのでしょうか。私は、ここに二つの理由があると考えています。
ひとつめは、「予測可能な世界」という建前を守りたい、という動機です。近代の組織や制度は、計画とマニュアルを愛します。完璧な計画を立て、その通りに資源を配り、予測通りの成果を出す。これが「正しい管理」だとされている以上、「世界は人間の知性で制御できる」という前提を崩すわけにはいきません。もし「すべては想定外で、その都度の総力戦でしか乗り切れない」と認めてしまえば、立派な中期経営計画や分厚いマニュアルの存在意義が揺らいでしまうからです。建前は、それを支える人々の立場とセットになっています。
ふたつめは、より身も蓋もない理由で、「想定内/外」の線引きが責任回避にとても便利だからです。事が起きたときに「これは想定内だったか」と問い、想定内ならマニュアル通りに処理すればよく、想定外なら「対応できなくて当然」と引き取れる。この二択を用意しておけば、最もエネルギーを使う仕事――すなわち、前例のない事態に自分の頭で立ち向かい、リスクを引き受けて判断するという仕事――から、合法的に降りることができます。「想定外」は、そのための上等な免罪符なのです。
この構造が厄介なのは、それが個人を少しずつ無力化していく点にあります。子どもの頃から「あらかじめ用意された正解を、いかに効率よく処理するか」ばかりを訓練されていると、レールから一歩外れた瞬間に、自分の足で立つことも、手持ちの道具をどう組み合わせればよいかも分からなくなります。タレブの言葉を借りるなら、変動やストレスにさらされて初めて強くなる「反脆弱性」を、私たちはわざわざ手放しているのかもしれません。安全な檻の中で「想定外には対応できません」と繰り返すうちに、想定外に対応する筋肉そのものが衰えていく。これは、想像以上に静かで、深刻な代償です。
## 第4章:すべてが想定外なら、何を磨くべきか ―― 総動員のロジック
二分法を捨て、「人生はすべて想定外だ」と腹を括ると、ひとつの帰結が必然的に出てきます。私たちは日々、その場その場でリアルタイムに判断を下し続けるしかない、ということです。そして、その判断の精度が、自分の損得を、ときには人生そのものを左右します。判断を誤って不利益を被るのは、結局のところ自分です。だとすれば、精度を上げようとするのは当然のことになります。
では、判断の精度は何によって決まるのでしょうか。私は、単一のスキルではなく、複数の力が有機的に絡み合って初めて精度が生まれると考えています。
知識・技術・経験は、目の前の事態を読み解く解像度を上げます。何が起きているのか、それがどれほど危ういのか、あるいはどんな好機を秘めているのか――この見極めができなければ、そもそも判断の土俵に立てません。過去の事例や他人の失敗、自分が潜り抜けた修羅場の蓄積が、状況を一瞬で見抜く目を育てます。
倫理観は、判断に「軸」を通します。どれほど知識や技術があっても、ぶれない軸がなければ、いざというときに保身に流れるか、あるいは単なる悪事に手を染めて自滅します。緊迫した一瞬に「何が本当に正しいか」を決めるのは、日頃から磨いてきた倫理観だけです。
経済力は、選択肢の幅と、失敗への耐久力をもたらします。目先のお金に困っていれば、長期的には明らかに不利な選択を選ばざるを得なくなります。蓄えは、大胆で創造的な判断を可能にするクッションでもあります。
この「総動員」を象徴する逸話として、私はある昭和の語り草を思い出します。真偽の検証はひとまず脇に置きますが、おおよそ次のように語り継がれています。大渋滞で身動きの取れなくなった一台の車に、コンサート会場へ急ぐ当時の国民的アイドルが乗っていました。会場には数万の群衆が詰めかけ、到着が遅れれば混乱は避けられない状況です。そこへ通りかかった白バイの隊員へ、付き添いの者が必死に懇願します。隊員はただちに本部へ無線を入れて判断を仰ぎ、結果として白バイが先導し、その車を渋滞から導き出して無事に会場へ送り届けた――そういう話です。
民間人を警察車両が先導することは、本来のルールからすれば明らかに逸脱です。前例もなく、処分の恐れもあったでしょう。それでも現場と本部がそれを実行したのだとすれば、彼らは「アイドルが困っているから」という以上に、「このまま到着が遅れて数万の群衆が暴れれば、それこそ大惨事になる」という、より大きな危機を一瞬で読み取ったのだと想像できます。極限の時間制約の中で、経験と倫理と、処分への恐怖と、目の前の公共の安全とを天秤にかけ、脳をフル回転させて決断し、実行する。これこそ「その時点で持てるものを総動員して、手法を組み替えて乗り切る」という適応の、最も純度の高い形ではないでしょうか。
大切なのは、この逸話が史実として正確かどうかではなく、こうした「マニュアルの外側にある英断」を私たちが美談として語り継いできた、という事実のほうです。本当に価値のある判断は、しばしば想定の外側にしか存在しません。そして、その外側で立つための力――知識・技術・経験・倫理観・経済力――を磨き続けることは、もはや贅沢でも趣味でもなく、生き抜くための必然なのです。
## 第5章:学習は呼吸である ―― 「リスキリング」というラベルの倒錯
ここまで来ると、ひとつの言葉が急に奇妙に見えてきます。「生涯学習」や「リスキリング」という言葉です。
すべてが想定外の世界で判断の精度を上げ続けるために、知識や技術を更新し続けることが「絶対の必然」なのだとしたら、それはもはや特別な努力ではありません。生きていくために呼吸をするのと同じ、ただの代謝です。誰も「生きるために呼吸をしなさい」とは言いません。あまりに当たり前だからです。それなのに、知識や技術の更新だけは、わざわざ「リスキリング」という新しいラベルを貼られ、いかにも高尚な義務や最新トレンドであるかのように大声で叫ばれている。この不自然さに、私は引っかかるのです。
なぜ、当たり前のはずのことを、わざわざ言葉にして叫ばなければならないのでしょうか。私の見立てはこうです。多くの人が、長らく「あらかじめ用意されたレールの上を走る」訓練ばかりを受けてきました。一度まともに就職すれば、あとは前例とマニュアルに従っていれば定年まで運ばれていく――そういう幻想の中では、自分の頭で判断する「野生の呼吸」を止めていても、自動的に前へ運ばれていけたのです。ところが時代が変わり、そのレールが突然途切れて、人々は想定外の荒野に放り出されました。呼吸の仕方を忘れた人たちが立ち尽くしているところへ、慌てた社会が「さあ学び直しなさい、それをリスキリングと呼びます」と拡声器で叫んでいる。あの掛け声は、いわば集団的な人工呼吸の号令なのだと思います。
実際、国もこれを政策として強力に後押ししています。経済産業省の「リスキリングを通じたキャリアアップ支援事業」は、受講料の最大七割(上限五十六万円程度)を補助し、キャリア相談から学び直し、転職支援までを一体で提供する大規模な仕組みです。私はこうした支援そのものを否定したいのではありません。レールが途切れて困っている人にとって、補助金や相談窓口は現実的な助けになります。問題は支援の中身ではなく、私たちがそれを受け取るときの「構え」のほうにあります。
というのも、学びがいったん「リスキリング」や「生涯学習」という、お行儀のいいパッケージに収められた瞬間、それはどこか「やらねばならないお勉強」や「老後の高尚な趣味」のような、生気のない活動へと変質してしまうからです。眠ろう眠ろうと意識するほど眠れなくなるように、呼吸を意識しすぎれば過呼吸を招くように、「学ばなければ」と身構えるほど、学びはこわばり、空回りします。「これからはAIの時代だ、学び直さなければ」と強迫的にセミナーや資格を詰め込み、インプット過多で心を病んでしまう人は、まさに呼吸を意識しすぎて過呼吸になっているのです。
ここから導かれる結論は、おそらくこうです。多くの人は、学習へのアプローチの順番を、根本から取り違えてきたのではないか。本来の順番は、「学ぶこと」が先にあるのではなく、「目の前の現実と格闘すること」が先にあって、学びは結果として後からついてくる、というものです。全力で走ったから息が切れるのであって、走ってもいないのにその場で激しく呼吸だけしようとすれば、苦しいだけで当たり前です。目の前の想定外に挑むから、必死で知識を吸収する。日中、手持ちの武器を総動員して試行錯誤したから、夜に深く眠り、知識が血肉になる。
クランボルツの「計画的偶発性理論」は、個人のキャリアの大半が予期せぬ偶然によって形づくられること、そしてその偶然を好機に変えるのは、好奇心や柔軟性、行動を起こす姿勢だと説きました。これは「学んでから動く」のではなく「動くから学べる」という順番の、別の角度からの裏づけだと私は受け取っています。新しい道具をとりあえず触ってみる。理不尽なニュースの裏側の構造を分析してみる。目の前の厄介ごとを、手持ちの知識を組み替えて解いてみる。これらはすべて、ただ生きるために動いているだけであって、本人に「お勉強をしている」感覚はありません。だからこそ過呼吸にもならず、不眠にも陥らず、それでいて圧倒的に打たれ強い。学びとは、身構えてやるものではなく、現実と格闘している最中に、気づけば自然に行われているものなのです。
## おわりに
「想定外でした」という何気ないひと言から出発して、私たちはずいぶん遠くまで歩いてきました。辿り着いたのは、こういう景色です。
世界は「想定内」と「想定外」に分かれてなどおらず、最初からすべてが想定外でできています。だから「想定外だから対応できない」という理屈は成立せず、それはしばしば、自分の頭で判断する重荷から降りるための免罪符として使われてきました。すべてが想定外であるからこそ、私たちは日々判断を迫られ、その精度を上げるために、知識・技術・経験・倫理観・経済力を総動員し、磨き続けるしかありません。そしてその「磨き続けること」は、特別な義務ではなく、生きるための呼吸そのものです。だからこそ、それをわざわざ「リスキリング」と名づけて叫ぶ声には、前提のズレが透けて見えるのです。
もちろん、これは「学ぶな」という話ではまったくありません。むしろその逆で、「もっと自然に、もっと当たり前に、息をするように学ぼう」という提案です。意識しすぎれば過呼吸になります。だから、肩の力を抜いて、目の前の想定外を一つずつ面白がりながら、手持ちのカードを組み替えていけばいい。そうやって走り、息を切らし、眠り、また走る。そのリズムの中に、学びは勝手に編み込まれていきます。
最後に、ひとつの問いをあなたに手渡したいと思います。あなたが次に「想定外でした」という言葉を口にしそうになったとき、それは本当に「手も足も出ない事態」だったのでしょうか。それとも、目の前の現実と格闘し、手持ちの武器を組み替えて対応することを、ただ拒絶しただけなのでしょうか。その不都合な真実を問い直すことの中にこそ、想定外の荒野を生き抜く力の芽が、案外ひっそりと宿っているのだと思います。
## 予想される反論と、それに対する見解
### 反論1:「想定外を減らす努力(リスク管理や計画)には、れっきとした価値があるはずだ」
おっしゃる通りで、私は計画やリスク管理を否定しているわけではありません。目安としての予測は、限られた資源を配分し、心の準備を整えるうえで確かに有効です。私が問題にしているのは、計画そのものではなく、「計画が外れたときに、その外れを免責の理由にしてしまう」態度のほうです。計画は立てるべきです。ただし、外れることを前提に立て、外れた瞬間に組み替える柔軟さとセットでなければ、計画はかえって私たちを硬直させます。価値があるのは「想定する力」ではなく「想定を手放せる力」だ、というのが私の立場です。
### 反論2:「白バイの先導は、法の下の平等を崩す危険な美談ではないか」
これは最も痛いところを突く反論で、私も全面的に賛美するつもりはありません。実際、特定の有名人だけが特別扱いされる先例を肯定すれば、平等の原則は崩れます。だからこそ、こうした判断は「教科書に載せられない」のです。私が評価しているのは「ルールを破ったこと」そのものではなく、「ルールの目的(この場合は群衆の安全)に立ち返り、形式を一時的に組み替えて目的を守った」という思考の質です。逸脱を一般化してはならない、という反論はまったく正しく、だからこそ、こうした判断は属人的な覚悟とセットでしか正当化されません。美談として無批判に消費されるべきではない、という点には全面的に同意します。
### 反論3:「すべてが想定外だと言うが、それは程度問題を無視した極論ではないか」
確かに、明日の天気と巨大隕石の衝突を同じ「想定外」として括るのは乱暴です。不確実性には濃淡があります。ただ、私が「すべてが想定外」と言うのは、確率の濃淡を否定するためではなく、「想定内という安全地帯が確実に存在する」という思い込みを揺さぶるためです。濃淡はあれど、ゼロの不確実性は存在しません。だから「ここまでは確実だから考えなくてよい」という線引きこそ警戒すべきだ、というのが趣旨です。程度問題であることを認めたうえで、なお「完全な想定内はない」と申し上げています。
### 反論4:「動的適応や即興を称揚するのは、結局のところ計画性のない人間の自己正当化ではないか」
鋭い指摘です。確かに「即興で乗り切る」は、無計画の言い訳にもなり得ます。けれども、本論で述べた即興は、知識・技術・経験・倫理観・経済力という分厚い土台のうえで初めて機能するものです。土台のない即興はただの出たとこ勝負であり、私が称揚しているのは、徹底的に備えたうえで、なお備えが裏切られたときに発揮される適応力です。準備と即興は対立しません。最大限準備した人だけが、質の高い即興にたどり着けます。
### 反論5:「リスキリングを冷笑するのは、学び直しを必要とする人々を突き放す態度ではないか」
これは真摯に受け止めるべき反論です。レールが途切れて路頭に迷う人にとって、補助金や学び直しの機会は命綱です。私はその機会を冷笑したいのではなく、機会を「人工呼吸の号令」として上から配給する社会の構えに違和感を述べているにすぎません。むしろ私の願いは、学びが「やらされる義務」ではなく「生きる呼吸」として、より多くの人にとって自然なものになることです。それは突き放しではなく、学びをもっと身近で楽なものにしたい、という方向の主張です。
### 反論6:「学習を呼吸にたとえるのは美しいが、現実には学ぶ時間も金もない人がいる」
その通りで、ここは比喩の限界がはっきり出るところです。呼吸はタダですが、学びには時間も費用もかかります。だからこそ、第4章で「経済力は選択肢の幅と耐久力をもたらす」と述べました。学びを呼吸のように軽やかにするためには、その土台となる時間的・経済的な余裕を社会としてどう確保するかが問われます。つまり「呼吸のように学べ」という理想と、「呼吸する余裕すらない」という現実は対立するのではなく、後者を整えることこそが前者を可能にする条件なのです。リスキリング支援の意義も、本来はそこにあるはずだと考えています。
### 反論7:「すべて結果論ではないか。白バイの判断も、たまたまうまくいったから美談になっただけだ」
これも正当な指摘です。同じ判断が裏目に出ていれば、それは「暴走」として語られたでしょう。判断の質と結果の良し悪しは、本来分けて評価すべきものです。私が注目しているのは結果の成否ではなく、「極限の制約下で、目的に立ち返り、リスクを引き受けて決断したという思考のプロセス」のほうです。プロセスが優れていても結果が伴わないことはあります。それでもなお、思考停止して何もしない態度よりは、引き受けて判断する態度のほうに価値を見出したい、というのが私の立場です。結果論で美談を消費する危うさには、私も同意します。
## 参考文献
- 書籍:『ブラック・スワン[上]―不確実性とリスクの本質』ナシーム・ニコラス・タレブ著、望月衛訳(ダイヤモンド社, 2009)[Amazon](https://www.amazon.co.jp/dp/4478001251?tag=digitaro0d-22)
- 書籍:『反脆弱性―不確実な世界を生き延びる唯一の考え方』ナシーム・ニコラス・タレブ著、望月衛・千葉敏生訳(ダイヤモンド社, 2017)[Amazon](https://www.amazon.co.jp/s?k=反脆弱性+タレブ&tag=digitaro0d-22)
- 書籍:『想定外のマネジメント[第3版]―高信頼性組織とは何か』カール・E・ワイク、キャスリーン・M・サトクリフ著、中西晶監訳(文眞堂, 2017)[Amazon](https://www.amazon.co.jp/s?k=想定外のマネジメント+ワイク&tag=digitaro0d-22)
- 書籍:『エフェクチュエーション 優れた起業家が実践する「5つの原則」』吉田満梨・中村龍太著(ダイヤモンド社, 2023)[Amazon](https://www.amazon.co.jp/dp/4478110743?tag=digitaro0d-22)
- 書籍:『その幸運は偶然ではないんです!―夢の仕事をつかむ心の練習問題』J.D.クランボルツ、A.S.レヴィン著、花田光世・大木紀子・宮地夕紀子訳(ダイヤモンド社, 2005)[Amazon](https://www.amazon.co.jp/dp/4478733244?tag=digitaro0d-22)
- データ:「リスキリングを通じたキャリアアップ支援事業」経済産業省(2022年〜)[公式サイト](https://careerup.reskilling.go.jp/)
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### 著者プロフィール
kentrue(yousystem)
フリーランスクリエイティブエンジニア/現代社会構造分析フリーク/ミュージシャン/ビジネス寓話創作者/思想家/キャバクラ愛好家
麗澤大学不合格、中央学院大学不合格、千葉商科大学不合格、城西国際大学不合格、
日本大学農獣医学部食品経済学科不合格、明治大学商学部二部不合格、
日本大学法学部法律学科二部不合格、神奈川大学不合格、法政大学二部不合格、
専修大学石巻短期大学部不合格、千葉経済大学不合格、
日本大学短期大学部合格、日本大学経済学部1年の留年を経て卒業
ハッシュタグ
#想定外 #不確実性 #リスキリング #反脆弱性 #ブラックスワン #即興力 #生涯学習 #意思決定
記事情報
公開日
2026-06-26 11:19:22
最終更新
2026-06-26 11:19:25