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承認という名のフランケンシュタイン ―― なぜ成功者は「同意がある」と本気で信じてしまうのか
## はじめに
ある事件を見聞きしたとき、私たちの心は驚くほど素早く動きます。「許せない」「クズだ」「厳罰に処すべきだ」。この反応自体は、人間として当然のものです。傷つけられた人がいて、その苦しみが現実にある以上、怒りは正しい場所から湧き出ています。
私はまず、この論考の出発点で一つだけ、はっきりと申し上げておきたいことがあります。本稿は、性暴力という行為を一ミリも擁護しません。被害に遭われた方が味わった苦しみは想像を絶するものであり、現在進行形で裁判に臨まれているその勇気には、深い敬意を表します。加害者の家族(配偶者や子)が巻き込まれた辛さにも、批判的な目を向けるつもりはありません。そして、罪を犯した本人が刑事的・道義的責任を果たすべきであることも、私は微塵も疑っていません。
その上で、私はあえて一歩引いた場所から、別の問いを立ててみたいのです。それは「彼は悪人だったから罪を犯したのか」ではなく、「彼は**なぜ、本気で『同意がある』と信じてしまったのか**」という問いです。
近年、社会的に大きな成功を収めた人物が、外から見れば理解しがたい性的逸脱に走り、自滅していく光景を、私たちは繰り返し目撃してきました。芸能人、官僚、経営者。立場は違っても、その崩れ方には不気味なほどの共通点があります。彼らの多くが口を揃えて、こう言うのです。「拒まれるとは思わなかった」「好意を持たれていると思った」と。
通念は、これを「身勝手な言い訳」として処理します。しかし私は、そこに嘘ではない何か――本人にとっては純粋な確信だった認知の歪み――が含まれている可能性を、真剣に検討すべきだと考えています。
本稿で私が論証したいのは、次の一点に尽きます。**こうした逸脱は、加害者個人のモラルの欠如が原因なのではなく、「過剰な承認や絶対的な権力」という高電圧の環境が、人間の認知ブレーキを構造的に破壊した結果である。** もしこれが正しいなら、一人を断罪して終わらせる限り、被害は形を変えて何度でも繰り返されます。問題は人ではなく、人を怪物に変える製造ラインの方にあるからです。
これは、けっして心地よい結論ではありません。なぜなら「あいつが悪魔だった」と言えば私たちは安全圏にいられますが、「構造のバグだ」と言った瞬間、その刃は読者である私やあなたにも向くからです。それでも私は、この不都合な構造を、できる限り誠実に解剖してみたいと思います。
## 第1章:「同意があると信じた」という証言の不気味さ
まず、現実の手触りから始めます。
報道によれば、ある元人気芸人の不同意性交等罪をめぐる公判で、被告人は「相手も喜んでいると思った」「気持ちが高ぶっていた」という趣旨の証言をしたと伝えられています。被害女性が拒絶していた場面の存在や、被告人の経済的・社会的影響力が女性に不利益への不安を生んでいた可能性が、検察側から指摘される一方で、被告人本人は一貫して「好意を持たれていると思った」と述べていると報じられました。
ここで私が注目したいのは、「同意があったか、なかったか」という法廷の争点そのものではありません。注目すべきは、被告人が**本気で「あると信じていた」らしい**という、その一点です。
仮にこれが計算ずくの嘘なら、話はむしろ単純です。悪意ある人間が言い逃れをしている、それだけのことになります。しかし、もし本人が心の底から「拒まれるはずがない」と確信していたのだとしたら、事態ははるかに不気味です。なぜなら、それは「悪意」ではなく「認知の故障」だからです。悪意は罰すれば抑止できますが、本人が異常を異常と感じていない故障は、罰の存在すら認識の外に置かれてしまいます。
ここで一つ、思考実験をしてみましょう。仮に山田太郎という、どこにでもいる四十三歳の男性がいるとします。彼を知っているのは、職場の同僚、数人の友人、近所のスーパーの店員、たまに通う店の女性くらいのものです。圧倒的に、社会から「認知されていない」人物です。
この山田太郎が、初対面の女性に対して「拒まれるはずがない」と確信できるでしょうか。おそらく、できません。彼には、その確信を支える材料が何もないからです。日々のささやかな関係の中で、彼は自分の魅力の等身大のサイズを、嫌でも思い知らされています。勘違いをしても、すぐに現実の冷気がそれを冷ましてくれます。フィードバックがダイレクトで、ミニマムなのです。
ところが、全国区の知名度を持つ人物は違います。「何千万人もの見知らぬ他者から愛されている」という巨大な事実が、彼の自己評価の土台に常に流れ込んでいます。一般に信じられているのは「有名人だから女性にモテて、だから勘違いした」という説明ですが、私が言いたいのはそれよりもう一段深いところです。問題はモテの多寡ではなく、**承認の宛先がすり替わっている**という構造の方にあります。
つまり、同じ「拒まれるはずがないという確信」でも、無名の山田太郎にはそれを持つことが構造上できず、著名人にはそれが構造上可能になってしまいます。ここに、個人の資質には還元できない、環境由来の落差があるのです。第2章では、この落差がなぜ生まれるのかを、もう少し丁寧に分解していきます。
## 第2章:承認のレバレッジ ―― マクロな人気がミクロな関係に誤適用されるとき
人間の意思決定には、二つの異なるモードがあるとされます。心理学者ダニエル・カーネマンが『ファスト&スロー』で広く知らしめた、System 1 と System 2 の区別です。System 1 は速く、直感的で、努力を要しません。System 2 は遅く、論理的で、意識的な負荷をかけて働かせる必要があります。
私たちが「拒まれるはずがない」と一瞬で感じてしまうのは、System 1 の仕事です。そして、その直感に「いや、待て。それは本当か」とブレーキをかけるのが System 2 の役割です。健全な人間の頭の中では、この二つが常にせめぎ合っています。
では、過剰な承認は、この仕組みに何をするのでしょうか。私はそれを「承認のレバレッジ(テコ)」と呼びたいと思います。
レバレッジとは、小さな力で大きなものを動かす仕組みのことです。著名人の脳内では、「何千万人ものファンに愛されている」というマクロな事実が、テコのように作用して、「目の前の初対面の一人」というミクロな関係にまで一気にスライド適用されてしまいます。本来、無関係なはずの二つが、System 1 の中で短絡的に接続されるのです。
ここで起きているのは、私が「承認の等価交換ミス」と呼ぶ現象です。整理すると、こうなります。
- **本来の事実**:メディアを通じて、不特定多数が「タレントという商品」に好意・興味を抱いている。
- **脳内での誤訳**:目の前の個人が、生身の自分に対して、性的・恋愛的な好意を抱いている。
この二つは、論理的にはまったく別物です。前者は記号への好意であり、後者は人格への好意です。しかし、過剰な承認に晒され続けた System 1 は、両者の境界を溶かし、前者を後者へと無断で両替してしまいます。しかも、その両替レートを疑う System 2 は、長年の全肯定によってすっかり錆びついています。
さらに厄介なのは、相手の振る舞いがこの誤訳を強化してしまう点です。著名人や権力者を前にした相手は、立場上、無下にできません。愛想のよい笑顔を向け、Yes と言い、褒め言葉を口にします。それは多くの場合、好意ではなく、その人の「属性(知名度や権力)」に対する自己防衛か、あるいは単なる社交です。ところが怪物化した脳は、その自己防衛のサインすら「自分個人への特別な好意」として回収してしまいます。こうして、誤訳の上にさらに誤訳が積み重なっていきます。
社会心理学者ロバート・チャルディーニは『影響力の武器』で、人間が「権威」や「好意」といったシグナルに対して、思いのほか機械的に反応してしまうことを示しました。ここから先は私の推論ですが、この機械的な反応は、向けられる側にも作用すると考えられます。権力を持つ側は、相手から返ってくる反射的な愛想や追従を、自分個人の魅力が引き出したものだと取り違えてしまう。承認のレバレッジは、双方向に作動するのです。
つまり、「同意があると信じた」という確信は、特異な性的サイコパス性の表れというよりも、**過剰な承認環境に置かれた人間の脳に、ほぼ必然的に生じる翻訳エラー**として理解できます。問題は心の闇ではなく、認知の配線にあるのです。
## 第3章:フランケンシュタイン ―― 創造主が、自らの創造物に捕食される
ここで私は、一つの古い物語を補助線として引きたいと思います。メアリー・シェリーが十九世紀に書いた『フランケンシュタイン』です。
多くの人が誤解していますが、「フランケンシュタイン」とは怪物の名前ではありません。怪物を生み出してしまった科学者、ヴィクター・フランケンシュタインの名前です。物語の核心は、人間が自らの理想や野心のために生み出したものが、やがて制御を超え、創造主自身を破壊し尽くす、というところにあります。私はこの構造が、承認と権力の暴走をほとんど完璧に言い当てていると感じます。
成功者は、最初から怪物だったわけではありません。多くの場合、出発点は純粋な努力です。社会の中で「認められたい」「生き残りたい」という、ごく真っ当な動機から、人は必死にパーツを集めて「理想の自分」というペルソナを組み立て始めます。下積みを重ねて作り上げた「愛される人気者」。隙のない「有能なリーダー」。羨望を集める「キラキラしたインフルエンサー」。これらはすべて、生き延びるための、いわば着ぐるみです。
問題は、その着ぐるみが社会的に機能し始めた瞬間に起こります。周囲から、承認・賞賛・数字・金・依存といった莫大なエネルギーが、着ぐるみに向かって注ぎ込まれます。人間は、この外部からの快楽に驚くほど弱いものです。注ぎ込まれれば込まれるほど、ペルソナは生身の自分から離れ、独自の質量を持って肥大化していきます。
そして、ある一線を越えたとき、主従が逆転します。周囲が愛し、金を払い、頭を下げるのは、頼りない生身の自分にではなく、完璧な着ぐるみの方です。すると本人の中に、「この着ぐるみを維持できなければ、自分には何の価値もない」という恐怖と依存が芽生えます。本来は道具だったはずのペルソナが主体となり、生身の人間がその維持のために奉仕する奴隷へと転落します。やがて思考回路そのものが、「怪物基準」に書き換えられていきます。
書き換えられた脳は、こう囁きます。「これだけ世間に全肯定されている自分が、間違うはずがない」「みんなが自分を求めているのだから、この人も当然そうだ」。この全能感のままアクセルを踏み込んだ瞬間、人は他者の尊厳という冷たい壁に激突し、創造主もろとも砕け散ります。これが、フランケンシュタイン・ルートの終着点です。
シェリーの原作で、怪物は最後にこう叫びます。「私が怪物になったのではない。お前たちが私を怪物にしたのだ」と。これは加害の免罪ではありません。しかし、誰が怪物を育てたのかという問いを、私たちに突きつけてきます。必死に努力して最高傑作を作り上げた人間が、その成功の報酬によって脳を壊され、自分の最高傑作に殺される。これほど現代的な悲劇もありません。
ここで強調しておきたいのは、これが特別な誰かの話ではない、ということです。フランケンシュタインの製造ラインは、芸能界という大舞台だけにあるのではありません。職場でかつて優秀だった上司が、神格化されて誰にも諫められなくなり、時代錯誤なハラスメントに走って一発で破滅していきます。SNSで「常に正しい自分」を演じ続けた人が、画面の中の怪物を維持するために、現実の関係を壊してまで過激化していきます。条件が揃えば、誰の身にも起こりうる――私はそう考えています。
## 第4章:芸能界から検察まで ―― 構造は、領域を問わない
「それは芸能界という特殊な世界の話だろう」という声が聞こえてきそうです。しかし、もしこれが本当に構造の問題なら、まったく異なる領域でも同じ現象が観察されるはずです。そして実際に、観察されます。
近年、検察の要職にあった人物が、部下の女性に対する性的暴行の容疑で起訴され、公判が進行している事案が報じられています。検察といえば、一般から見れば「正義の塊」のような組織であり、その要職にある人物は、社会的にもっとも理性を信頼されている立場のはずです。
それでも、同じことが起きました。私はここに、自説を支える有力な傍証を見ます。一件の一致で構造が証明されるわけではありませんが、芸能人と検察官という、知名度の源泉も、権力の源泉も、組織文化もまったく異なる二人が、よく似たルートで自滅したという事実は、無視できません。共通しているのは内面の資質ではなく、**「誰からも拒絶されない」という高電圧の環境に長く置かれていた**、という一点だからです。
芸能人を狂わせたのが「ファンからの承認」という電流だとすれば、検察官を狂わせたのは「国家から付与された独占的権力」という電流です。源は違えど、どちらも人間が進化の過程で想定していなかった異常値のエネルギーであり、生身の脳のキャパシティをはるかに超えています。日本の最高エリート層を集めた組織でさえ、自前ではこの暴走を制御できませんでした。この事実は重いと私は思います。
ここから導かれる結論は、シンプルですが過激です。**これは、個人のモラルの問題ではなく、職業病に近い。** 高電圧の環境に置かれた人間は、その内面がどうであれ、認知機能のブレーキが侵食されていきます。だとすれば、対処すべきは個人の道徳教育ではなく、環境そのものの設計です。
航空業界は、墜落事故の原因を「パイロットのうっかりミス」に帰すことをやめ、「ミスが起きてもカバーできるコックピットの構造」を作る方向へと舵を切ることで、安全性を飛躍的に高めてきました。スイスチーズモデルと呼ばれる考え方です。一枚一枚のチーズには穴が空いていても、複数枚を重ねれば、穴が一直線に貫通する確率は劇的に下がります。人間は必ずミスをするという前提に立って、システムの側で受け止めるのです。私たちは、承認と権力の暴走に対しても、同じ発想を持つべきではないでしょうか。
社会学者の小坂井敏晶は『責任という虚構』の中で、私たちが当然視している「自由意志を持った主体が、自らの行為に責任を負う」という近代的な人間像そのものに、根底から疑問を投げかけています。私はその議論のすべてに与するわけではありませんが、少なくとも「個人の意志の弱さ」だけにすべてを帰す説明が、いかに脆いかを考える上で、示唆に富む視点だと感じます。心理学者フィリップ・ジンバルドーが『ルシファー・エフェクト』で描いた、ごく普通の人間が状況の力によって加害者へと変貌していく過程も、同じ警告を発しています。悪は、特別な人格の中ではなく、特定の状況の中に宿るのです。
## 第5章:宝くじの本、そして文科省へ ―― 川上への処方箋
では、この製造ラインに、どこで楔を打ち込めばよいのでしょうか。
ここで私は、意外な参照点を持ち出したいと思います。宝くじの高額当選者に手渡される、一冊の冊子です。
宝くじで一千万円以上を当てた人には、『【その日】から読む本』という小冊子が銀行で手渡されます。二〇〇一年から続くこの取り組みは、突然の大金で人生を狂わせないための心構えを、弁護士・臨床心理士・ファイナンシャルプランナーらの助言をもとにまとめたものです。なぜこんなものが必要なのか。答えは単純です。**人間の脳は、突然手にした等身大を超えるエネルギーを、安全に取り扱えるようには設計されていないから**です。
ここで私は、はたと気づきます。突然降ってきた「過剰な大金」が人の認知を狂わせる劇物なら、突然降ってきた「過剰な承認・権力」もまた、まったく同質の劇物ではないか、と。経済的エネルギーと社会的エネルギー。形は違えど、どちらも脳のキャパを超える異常値であり、取扱説明書なしに素手で扱えば、人を壊します。
だとすれば、処方箋の方向は見えてきます。「有名になったあなたへ」「権力を持ったあなたへ」と題された、フランケンシュタイン化を防ぐための指南書を作ればよいのです。そこに書かれるべきは、精神論ではありません。たとえば、こういう冷徹な現実です。
- 周囲が愛しているのは、メディアと組織が作り上げた「商品」であって、生身のあなた個人ではない。
- 初対面の相手が向けてくる笑顔は、あなたへの好意ではなく、あなたの「属性」に対する社交か警戒である。
- 売れれば売れるほど、周囲はあなたに嘘(お世辞)をつく。あなたの直感(System 1)は、すでにバグっていると疑え。
労働の世界には「安全配慮義務」という概念があります。危険な機械を扱わせるならヘルメットを、有害物質を扱わせるなら防護服を与えるのは、雇う側の絶対的な責任です。芸能事務所にとって「売れる」とは、所属タレントを「社会的承認という超高電圧」に晒す行為にほかなりません。それなら、防護服にあたる指南書を渡すことは、当然の安全配慮義務であるはずです。バグった本人を「個人のモラルの問題」として切り捨てるのは、安全対策を怠った工場が事故の責任を作業員個人に押し付けるのと、構造的に同じことです。
ただし、私はここで立ち止まりません。なぜなら、この問題は芸能事務所だけのものではないからです。検察という国家機関でも同じことが起きた以上、これは一企業の社会的責任という枠をはるかに超えています。SNSの時代、誰もが突然「ミニ・著名人」になりうるし、就職すれば誰もが「ミニ・権力者」になります。承認と権力の取り扱いは、もはや一部のエリートの問題ではなく、現代を生きる全員に必要なリテラシーなのです。
ならば、最終的な担い手は国家であり、教育であるべきだと私は考えます。私たちは自動車の運転免許を取るとき、「便利だが、一歩間違えれば人を殺し、自分の人生も終わらせる凶器だ」と、徹底的に恐怖を教え込まれます。承認も権力も、まったく同じ「強力な乗り物」です。それなのに現在の教育は、「頑張って偉くなろう」「有名になろう」「成果を出そう」と、アクセルの踏み方しか教えていません。ブレーキのついていない車の運転方法だけを教えて、社会という公道に放流している。事故が多発するのは、むしろ当然ではないでしょうか。
文科省を巻き込んで、これを教育に組み込む。道徳的な綺麗事ではなく、「人間は過剰に承認されると認知のブレーキが壊れる」という冷徹なメカニズムを、データとともに教える。私はそれを、決して非現実的な夢物語だとは思いません。それは、社会のOSにバグの修正プログラムを組み込む作業なのです。
## おわりに
私はこの論考を通じて、一つのことを言おうとしてきました。**人を怪物に変えるのは、その人の心の闇ではなく、その人を取り巻く環境の電圧である。** だから、一人の怪物を断罪して溜飲を下げても、製造ラインが稼働し続ける限り、次の怪物が、そして次の被害者が、自動的に生み出されてしまうのです。
この視点は、加害者への甘さでは断じてありません。むしろ逆です。「あいつは悪魔だった」と片付ける世間の正義感の方が、はるかに安易で、はるかに無責任だと私は思います。なぜなら、それは「自分は安全だ」という幻想の上にあぐらをかいているからです。「構造のバグだ」と認めることは、「条件が揃えば、明日あの席に座るのは自分かもしれない」という、ぞっとする刃を自らに突きつけることを意味します。
繰り返します。罪は、法の下で厳格に裁かれなければなりません。被害者の苦しみが、構造論によって一ミリでも軽く扱われてよいはずがありません。私が問いたいのは、その裁きの「後」です。一人を裁いて終わりにするのか、それとも、次の被害者を生まないために、人を怪物に変えるインフラそのものに手を入れるのか。
私たちは、スターや権力者を「神」に祭り上げ、過剰な承認という餌を与え、怪物を育てる共犯者でもあります。だとすれば、最後の防波堤は、案外シンプルなところにあるのかもしれません。どんなに有能で人気のある人物であっても、その輝かしい外側はただの着ぐるみであり、中身は油断すればすぐにバグる、ただの頼りない人間にすぎない――そう冷静に見つめる、もう一つの目を、私たち一人ひとりが孤独に持ち続けることです。
その目を、私はあなたと一緒に持ちたいと思っています。誰かを傷つけるためではなく、二度とこのような悲劇を――被害者の悲劇も、自滅する加害者の悲劇も――繰り返さないために。
## 予想される反論と、それに対する見解
### 反論1:「結局それは、加害者を環境のせいにして擁護しているだけではないか」
これが最も鋭く、最も痛い反論です。私はこれに正面から答えます。本稿は、刑事責任を一ミリも減じるものではありません。犯した罪は、法の下で厳格に裁かれるべきです。私が分離しているのは「責任の所在」と「原因の所在」です。責任は個人にあります。しかし原因は構造にもあります。原因を構造に求めることと、責任を個人から免じることは、まったく別の話です。むしろ、原因を構造に突き止めなければ、次の被害者を防げません。これは被害者のための構造論なのです。
### 反論2:「誰でも怪物になるというのは決定論で、踏みとどまる人を説明できない」
ごもっともです。同じ高電圧環境に置かれても、自滅しない人は大勢います。しかし、それは私の論の反証にはなりません。喫煙者が全員肺がんになるわけではなくても、喫煙が肺がんのリスク要因であることは揺らぎません。私が主張しているのは「全員が必ず怪物になる」ではなく、「高電圧環境は怪物化のリスクを構造的に高める」ということです。踏みとどまった人は、孤独な System 2 を維持できた幸運な少数者であり、その維持を個人の精神力だけに委ねている現状こそが、設計の不備なのです。
### 反論3:「指南書や教育で、本当に人間の認知の歪みが防げるのか」
完全には防げないでしょう。しかし「完全に防げないなら無意味だ」という論法は、あらゆる安全対策を否定してしまいます。シートベルトは全ての死を防ぎませんが、装着は義務化されています。指南書や教育の価値は、ゼロをイチにすることではなく、暴走の確率を統計的に押し下げ、本人が「これは職業病の初期症状だ」と気づく確率をわずかでも上げることにあります。スイスチーズの穴を、一枚増やすのです。それで十分に意味があります。
### 反論4:「フランケンシュタインという文学のメタファーは、感傷的で非科学的ではないか」
メタファーは論証の代わりにはなりません。それは認めます。しかし本稿では、メタファーは飾りであって、骨格は別にあります。骨格を支えているのは、System 1 と System 2 という認知の二重過程、承認のレバレッジという機序、そして芸能界と検察という異領域での現象の一致です。フランケンシュタインは、その骨格を直感的に把握するための補助線にすぎません。補助線を消しても、論の本体は立っています。
### 反論5:「そんな大掛かりな社会設計より、厳罰化の方が手っ取り早く効果的だ」
厳罰化を否定はしません。しかし、本稿の核心は「本人が本気で同意があると信じている」ケースでは、罰の存在がブレーキとして機能しにくい、という点にあります。激突して破滅した後で初めて「同意ではなかったのか」と気づくのなら、事前の抑止になっていません。厳罰は事後の応報としては必要ですが、事前の予防としては片肺です。応報と予防は、どちらかではなく、両方が要ります。
### 反論6:「権力や承認を悪者にすると、成功や向上心まで否定することにならないか」
なりません。私は承認や権力そのものを悪だとは言っていません。自動車が便利な道具であるのとまったく同じで、承認も権力も、人を生かす強力なエネルギーです。問題は、強力だからこそ取扱説明書が要る、という一点だけです。アクセルを否定しているのではなく、ブレーキの教習を加えようと言っているのです。向上心は、ブレーキを学んだ上でこそ、安全に踏み込めます。
### 反論7:「他人事として構造を語るあなた自身は、本当に安全圏にいるのか」
いません。これは本稿でもっとも誠実に答えるべき問いです。私自身、SNSで小さな承認を得れば気が大きくなり、System 1 が囁く声に何度も足をすくわれそうになります。本稿は、安全圏から他人を分析する文章ではなく、「明日は我が身」という恐怖を共有するための文章です。だからこそ私は、読者を裁く言葉ではなく、「共に、自分の中の怪物を見張りましょう」という言葉で、これを締めくくりたいのです。
## 参考文献
※ 本記事にはアフィリエイトリンクが含まれています。
- 書籍:メアリー・シェリー『フランケンシュタイン』小林章夫訳(光文社古典新訳文庫, 2010)[Amazon](https://www.amazon.co.jp/dp/4334752160?tag=digitaro0d-22)
- 書籍:ダニエル・カーネマン『ファスト&スロー(上)あなたの意思はどのように決まるか?』村井章子訳(ハヤカワ文庫NF, 2014)[Amazon](https://www.amazon.co.jp/dp/4150504105?tag=digitaro0d-22)
- 書籍:フィリップ・ジンバルドー『ルシファー・エフェクト ふつうの人が悪魔に変わるとき』鬼澤忍・中山宥訳(海と月社, 2015)[Amazon](https://www.amazon.co.jp/dp/4903212467?tag=digitaro0d-22)
- 書籍:ロバート・B・チャルディーニ『影響力の武器[第三版]なぜ、人は動かされるのか』社会行動研究会訳(誠信書房, 2014)[Amazon](https://www.amazon.co.jp/dp/4414304229?tag=digitaro0d-22)
- 書籍:小坂井敏晶『増補 責任という虚構』(ちくま学芸文庫, 2020)[Amazon](https://www.amazon.co.jp/s?k=責任という虚構+小坂井敏晶&tag=digitaro0d-22)
- 冊子:『【その日】から読む本 突然の幸運に戸惑わないために』(みずほ銀行/宝くじ高額当選者向け, 2001年〜)[参考](https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%80%90%E3%81%9D%E3%81%AE%E6%97%A5%E3%80%91%E3%81%8B%E3%82%89%E8%AA%AD%E3%82%80%E6%9C%AC)
- 報道:「元ジャンポケ斉藤被告『好意持たれていると』 謝罪も、性的暴行公判」時事ドットコム(2026年6月2日)[URL](https://www.jiji.com/jc/article?k=2026060200114&g=soc)
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### 著者プロフィール
kentrue(yousystem)
フリーランスクリエイティブエンジニア/現代社会構造分析フリーク/ミュージシャン/ビジネス寓話創作者/思想家/キャバクラ愛好家
麗澤大学不合格、中央学院大学不合格、千葉商科大学不合格、城西国際大学不合格、
日本大学農獣医学部食品経済学科不合格、明治大学商学部二部不合格、
日本大学法学部法律学科二部不合格、神奈川大学不合格、法政大学二部不合格、
専修大学石巻短期大学部不合格、千葉経済大学不合格、
日本大学短期大学部合格、日本大学経済学部1年の留年を経て卒業
ハッシュタグ
#承認欲求 #権力と認知 #フランケンシュタイン #構造論 #ファスト&スロー #安全配慮義務 #不同意性交 #社会批評
記事情報
公開日
2026-06-06 18:10:18
最終更新
2026-06-06 18:10:24