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ショートストーリー

縦書き

普通でいいんだよ

郷田真希が白河産業のブランドマネージャーに任じられた日、上司は一枚の折れ線グラフを見せた。台所用洗剤「まいにち」。二十五年間、ほとんど水平な線だった。 「悪くない。でも、話題がない」と上司は言った。「君の代で、何か起こしてほしい」 何かを起こす。郷田はその言葉を待っていた気がした。前の部署では新商品を三つ立ち上げ、二つ潰した。潰したほうの経験が、彼女を前に進ませていた。 引き継ぎの相手は、浦部という男だった。五十代半ば、開発から販促まで十五年、この一商品だけを見てきたという。初日、郷田は挨拶もそこそこに刷新案を並べた。パッケージの全面変更、香りの追加、参加型のキャンペーン。浦部は最後まで黙って聞き、ひとことだけ言った。 「面白いですね。やってみたらいいと思いますよ」 反対されると身構えていた郷田は、拍子抜けした。同時に、少し苛立った。この人は、自分の商品に興味がないのだろうか。 企画は通った。試作の香料サンプルが上がり、社内の反応も上々だった。ところが、モニター調査で予想外の声が集まる。「前のと違う」「手が覚えている匂いが消えた」。定量的には誤差の範囲だ。郷田は資料にそう書いた。 会議で、営業部長が浦部に振った。「浦部さん、どう思います」 「私はもう担当じゃないので」浦部は笑った。「郷田さんの判断でいいと思います」 その夜、郷田は残業しながら、苛立ちを言葉にしてしまった。「浦部さん、正直、守りに入ってませんか。二十五年同じことをやってきて、それで良かったんですか」 浦部は怒らなかった。お茶を一口飲んで、「明日、朝五時に工場へ来られますか」とだけ言った。 翌朝の充填ラインは、思っていたより静かだった。浦部は検査室で小さな紙コップを並べ、原液を鼻に近づけていた。 「毎朝、これを」 「毎朝ですか」 「原料のロットが変われば、香りは動きます。水も動く。季節でも動く。放っておけば、半年で別物になる」 浦部は調合表を開いた。日付ごとに、小数点以下の数字が細かく書き換えられていた。何百回もの修正の跡だった。 「二十五年、同じ匂いを出すために、毎日変えてるんです」浦部は言った。「変えないというのは、何もしないことじゃない」 郷田は言葉が出なかった。自分が「守り」と呼んだものは、二十五年分の、誰にも見えない微調整の連なりだった。 「じゃあ、なぜ止めなかったんですか。私の企画を」 「止める理由が、私の中にないので」浦部は紙コップを片づけながら言った。「私が正しいと思う必要は、別にないでしょう。決めるのはあなたで、続けるのも、あなたなので」 郷田は企画を組み替えた。香料の追加は取り下げた。パッケージは全面刷新ではなく、キャップの開けやすさだけを変えた。キャンペーンのコピーは、話題を作る言葉ではなく、事実を書いた。——この洗剤の匂いは、二十五年間、毎朝調整されています。 数字はすぐには動かなかった。三か月目に、折れ線がわずかに上を向いた。跳ねたわけではない。以前の水平線に、静かに戻っただけだった。上司は「地味だな」と言い、それから「まあ、悪くない」と言った。 引き継ぎの最終日、郷田は浦部に聞いた。「あのとき、腹は立たなかったんですか」 「立ちませんね」浦部は少し考えて、「立てるほど、自分の考えを持ってないので」と言った。冗談のように聞こえたが、目は笑っていなかった。 帰り際、彼は郷田を振り返って、こう言った。 「明日も、同じのをよろしくお願いします」 その「同じ」を保つのに、どれだけの手が動いているのかを、郷田はもう知っていた。

論考

縦書き

「変えない」は、最も能動的な仕事である

怒らない人がいる。我慢が上手いのだと思われがちだが、そうとは限らない。守るべき「自分の考え」を、はじめから強く握っていないだけのことがある。怒りとは、自分の想定以外を認めない状態の別名だ。想定に固執しなければ、怒る起点そのものが立ち上がらない。ここには忍耐とは別種の合理がある。——直近三か月であなたが強い不快を覚えた場面のうち、原因が「相手の行動」ではなく「自分の想定」だったものは何割か。 この態度は三つの動作に分解できる。第一に、自我を主張の中心から外すこと。第二に、過去の後悔と未来の不安から意識を引き剥がし、目の前の一手に注ぐこと。第三に、非日常ではなく日常を仕事の対象に据えること。三つに共通するのは、力を込めないことだ。力を込めない者は、長く続けられる。長く続けられる者は、時間を味方にできる。——あなたのチームの主要業務のうち、「気合い」を前提に設計されている工程はいくつあるか。 だが、この姿勢は容易に無責任と見分けがつかなくなる。プライドを持たないことは、品質基準を持たないことへ滑りやすい。目標を捨てた組織は方向を失う。「普通でいい」という言葉は、現状維持を正当化する最も便利な道具でもある。実際、市場が構造的に変わったとき、日常を守り続けた企業から順に退場していく。——直近一年で「これは変えなくていい」と判断した意思決定のうち、根拠を文書で説明できるものは何件か。 手放すべきものを取り違えているのだと考えたほうがいい。捨てるのは「自分の考えへの執着」であって、判断基準ではない。前者は他者の情報を遮断し、後者は情報を選別する。二つは逆向きに働く。同様に、「普通を維持する」ことは静止ではない。原料も人も市場も動き続ける以上、同じ状態を保つには絶えざる微調整が要る。変わらない製品や変わらないサービスは、変え続けた結果として存在している。諦めるという語は、もとは「明らめる」だった。一点への集中を解くと、かえって全体がよく見える。——あなたの組織で「変わっていないもの」を一つ選び、それを維持するために年間どれだけの工数が投じられているか、説明できるか。 情報の流入量が処理能力を超えた環境では、反応の総量を減らすことが判断の質を上げる。すべての通知、すべての批判、すべての流行に反応する組織は、自分の速度を持てない。反応しないことは鈍さではなく、選択である。そして選択の質は、何を拾ったかよりも、何を拾わなかったかに表れる。——先週受け取った情報のうち、「反応しない」と決めたものを列挙できるか。 ### 実務への含意 - 「変えない」と決めた領域にこそ、維持のための工数を明示的に予算化する。無償の努力に支えられた安定は、担当者の異動で崩れる。 - 会議での反対は「自分の案を通すため」か「基準に反するため」かを言語化して分ける。前者は減らし、後者は増やす。 - 施策の評価期間を、話題化の速さではなく、日常業務に定着するまでの長さで設定する。 ### 参考文献 - 『反応しない練習 あらゆる悩みが消えていくブッダの超・合理的な「考え方」』草薙龍瞬(KADOKAWA)[Amazon](https://www.amazon.co.jp/dp/4041030404?tag=digitaro0d-22) - 『嫌われる勇気 自己啓発の源流「アドラー」の教え』岸見一郎・古賀史健(ダイヤモンド社)[Amazon](https://www.amazon.co.jp/dp/4478025819?tag=digitaro0d-22) - 『ビジョナリー・カンパニー2 飛躍の法則』ジム・コリンズ(日経BP社)[Amazon](https://www.amazon.co.jp/dp/4822242633?tag=digitaro0d-22) ※ 本記事にはアフィリエイトリンクが含まれています

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