アイキャッチ画像
ショートストーリー
空っぽの冷蔵庫
山下美和子は、末っ子の息子が家を出た日の夜、久しぶりに冷蔵庫を開けた。
三段の棚には、ほとんど何も入っていなかった。卵が三個と、賞味期限の切れた豆腐と、夫が晩酌用に買った缶ビールが二本。
「今夜、どうする?」
夫の義明が台所に顔を出した。
「外に食べに行こうか」
美和子はそう答えた。二十五年間、毎日欠かさず食事を作ってきた。三人の子供を育て上げた。もう、作らなくてもいいのだ。
それから半年、山下家の食卓は変わった。週に三回は外食。残りの日も、デパ地下の惣菜や宅配弁当で済ませることが増えた。美和子は久しぶりに友人たちとランチに出かけるようになり、洋服も買うようになった。
「やっと自分の時間ができた」
美和子は夫にそう言った。義明は黙ってうなずいた。
ある日曜日、義明はパソコンに向かっていた。ライフプランを計算するソフトに数字を入力している。
「ちょっと、見てほしいんだが」
美和子が覗き込むと、画面にはグラフが表示されていた。右肩下がりの線が、ある地点でゼロを下回っている。
「これ、何?」
「俺たちの貯金だ。今のままの生活を続けると、六十八歳でなくなる」
美和子は黙った。
「退職金と貯金で三千万近くになる予定だったんだが、この調子だと足りない」
義明は淡々と説明した。定年後の五年間、年金が出ない期間の生活費だけで二千五百万円以上かかる。今の支出を続ければ、七十歳になる前に資金が尽きる。
「でも、子供たちにかかるお金がなくなったんだから、楽になったんじゃないの」
美和子は反論した。
「数字を見てくれ。子供がいた頃より、月の支出が増えてる」
義明がスマートフォンの家計簿アプリを見せた。食費、九万三千円。被服費、三万一千円。交際費、一万七千円。子供がいた頃より、確かに増えていた。
「私、そんなに使ってた?」
「俺も気づかなかった。二人とも、タガが外れてたんだな」
その夜、二人は食卓で向かい合った。テーブルの上には、美和子が久しぶりに作った野菜炒めと味噌汁があった。
「二十五年、ずっと節約してきた」
美和子は言った。
「子供の学費のために、自分の服を買わなかった。友達との付き合いも断ってきた。やっと自由になれたと思ったのに」
義明は箸を置いた。
「俺もそう思ってた。定年したら、のんびり暮らせると」
「でも、数字は嘘をつかない」
美和子は自分でそう言って、驚いた。夫が見せたグラフが、頭から離れなかったのだ。
「全部やめろとは言わない」
義明が言った。
「友達との付き合いも、たまには外食も、いいと思う。ただ、どこかで線を引かないと」
「わかってる」
美和子は答えた。
それから三カ月、山下家の支出は月八万円減った。外食は週一回にした。美和子は週に二回、料理を作るようになった。友人との付き合いは続けているが、回数を減らした。スマートフォンの契約も見直した。
「これなら、七十五歳まではもつ」
義明が新しいグラフを見せた。線はまだ右肩下がりだったが、ゼロを下回る地点が先に延びていた。
「それでも、足りないでしょう」
「だから、六十歳からも少し働こうと思ってる。フルタイムじゃなくていい。週三日くらいで」
美和子はうなずいた。
「私も、何かできることを探してみる」
冷蔵庫を開けると、野菜が並んでいた。キャベツ、人参、玉ねぎ、豚肉。明日の献立を考えながら、美和子は思った。
空っぽの冷蔵庫は、自由の象徴だと思っていた。でも本当は、何を入れるか自分で決められることこそが、自由なのかもしれない。
論考
老後資金の本質——金額ではなく「習慣」が命運を分ける
### 序
老後資金として3000万円あれば安心だろうか。結論から言えば、金額だけでは何も決まらない。重要なのは、その資金をどのようなペースで使うかという「支出習慣」である。同じ3000万円でも、月の支出が25万円の家庭と40万円の家庭では、資金の寿命は大きく異なる。老後の安心は、いくら貯めたかではなく、いくら使い続けるかで決まる。では、なぜ多くの人は支出習慣を見直せないのか。
### 展開
人は収入に応じて生活水準を上げる傾向がある。これは「パーキンソンの第二法則」と呼ばれ、支出は収入の額まで膨張するという経験則だ。子育て中は教育費という明確な目標があるため、支出にブレーキがかかる。しかし子供が独立すると、その抑制力が消える。
興味深いのは、支出が増える自覚がないことだ。外食が増え、被服費が増え、交際費が増えても、「子供にかかるお金がなくなったのだから当然」と合理化してしまう。しかし数字を見れば、子供がいた頃より支出が増えているケースは珍しくない。ライフステージの変化は、支出を見直す好機であるはずが、逆に支出を膨張させる罠にもなりうる。では、この罠から逃れるにはどうすればよいか。
### 反証
ただし、支出削減だけが正解ではない。過度な節約は生活の質を下げ、精神的な満足度を損なう。特に長年節約を続けてきた人にとって、子供独立後の「解放感」は正当な感情でもある。すべての楽しみを我慢することが、老後の幸福につながるとは限らない。
また、60歳以降も働くという選択肢は、体力や健康状態に依存する。誰もが再雇用で収入を得られるわけではない。収入増だけに頼る計画はリスクが高い。重要なのは、複数の手段をバランスよく組み合わせることだ。では、実際にどのようなバランスが現実的なのか。
### 再構成
老後資金を長持ちさせる鍵は、①収入を増やす、②支出を減らす、③資産を運用する、の三つをバランスよく実行することにある。月5万円の改善を目指すなら、「3万円働いて稼ぎ、2万円節約する」という組み合わせでもよい。
最も重要なのは、数字で現実を把握することだ。ライフプラン表やシミュレーションツールを使い、現在の支出を続けた場合に何歳で資金が尽きるかを可視化する。この「見える化」が、習慣を変える動機となる。漠然とした不安は行動に結びつかないが、具体的な数字は意識を変える。では、いつから始めるべきか。
### 示唆
答えは「今すぐ」だ。定年が近づいてからでは、修正に使える時間が少ない。50代のうちに支出習慣を見直し、段階的に生活水準を調整しておけば、定年後のショックは小さくなる。
老後資金の問題は、突き詰めれば「自分の生活をコントロールできるか」という問いに帰着する。惰性で過ごすか、意識的に選択するか。その違いが、老後の安心度を決める。
---
**実務への含意**
- ライフプラン表を作成し、現在の支出を続けた場合に何歳で資金が尽きるかを数字で把握する
- 子供独立などライフステージの変化時に、支出項目を一つずつ見直す機会を設ける
- 収入増・支出減・資産運用の三つを組み合わせ、どれか一つに偏らない計画を立てる
---
### 参考文献
※ 本記事にはアフィリエイトリンクが含まれています
- 『年収200万円からの貯金生活宣言』横山光昭(ディスカヴァー・トゥエンティワン)[Amazon](https://www.amazon.co.jp/dp/4887597045?tag=digitaro0d-22)
- 『バビロンの大富豪 「繁栄と富と幸福」はいかにして築かれるのか』ジョージ・S・クレイソン(グスコー出版)[Amazon](https://www.amazon.co.jp/dp/4901423126?tag=digitaro0d-22)
- 『知らないと大損する!定年前後のお金の正解 改訂版』板倉京(ダイヤモンド社)[Amazon](https://www.amazon.co.jp/dp/447811868X?tag=digitaro0d-22)