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「運だったのか」と気づけた人へ——能力主義という時代の呪いと、謙虚さという救い
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## はじめに
先日、あるニュース映像が繰り返し流れているのを、なんとなく眺めていました。ある重大事件の裁判に関する報道です。被告席にいるのは、私と年格好のそう変わらない、どこにでもいそうな中年の男性でした。
そのとき、私はふと考え込んでしまいました。彼と私を分けたものは、いったい何だったのだろうか、と。
彼はこれから重い刑を背負い、社会から切り離されていきます。一方の私は、壊れかけたエアコンに文句を言いながらも、こうして穏やかにパソコンに向かっています。年齢も、境遇も、決定的に違ったわけではないように見えます。それなのに、たどり着いた場所はあまりにも違うのです。
考えを進めていくと、私はある結論の手前で立ち止まりました。突き詰めれば、決定的な違いは「経済基盤」であり、もっと言えば「運」だったのではないか、と。そして、そう思った瞬間に、なんとも言えない虚しさと、かすかな恐ろしさが押し寄せてきたのです。もし私に運がなかったら、被告席にいたのは私だったかもしれない——そう思わずにはいられませんでした。
本稿は、この「結局、運なのか」という問いを、感傷で終わらせずに正面から引き受けるための論考です。私が向き合いたいのは、次のような通念です。すなわち、「成功したのはその人が努力し、実力があったからだ。失敗したのは努力が足りなかった、その人の自己責任だ」という、現代社会に深く根を張った考え方です。
先に私の主張を述べておきます。私たちが努力を積み重ねる「打席」に立てるかどうか、そのスタートラインそのものを、残酷なほどに運が支配しています。だからこそ、成功した人に本当に必要なのは、自分の力を誇る自信ではなく、「これは運のおかげかもしれない」と認める謙虚さです。そしてこの謙虚さこそが、成功者を傲慢から救い、社会を分断から救う、ほとんど唯一の連帯の糸なのではないか——これが本稿を通じて共に考えたいことです。
まず第1章で、私自身の経歴を素材に「運がどれほど人生を左右するか」を具体的に見ます。第2章では、それでもなお残る「本人の意志」の領域を、運とは切り分けて確認します。第3章で、能力主義という思想がなぜ人を傷つけるのかを掘り下げ、第4章で、では私たちはどう生きればいいのかという実践に橋を架けます。最後に第5章で、この問いが社会全体に投げかけるものを展望します。
## 第1章:私の25年は、いくつの偶然の上に立っていたのか
正直に申し上げます。私が新卒で最初の職を得られたのは、実力ではありませんでした。父の強力なコネクション——ありていに言えば、父の飲み友達だった社長の会社に、拾ってもらっただけなのです。
この時点で、すでに一つの大きな運が働いています。「生まれ育った環境」という、本人の努力ではどうにもならない初期条件です。頼れる縁がある家に生まれるか、そうでないか。これは自分では一切選べません。
しかも、その最初の職では、私はほどなく挫折しました。そこから転職を試みたのが2000年前後のことです。後から知ったのですが、この時期は転職市場としては最悪の部類に入る、いわゆる就職氷河期の只中でした。内閣官房の資料によれば、この世代——おおむね1993年から2004年に卒業期を迎えた人々——は、いまなお正規雇用を望みながら非正規で働く人が数十万人規模で存在し、世代内の経済格差が他の世代より大きいことが指摘されています。まともな椅子に座ること自体が、構造的に難しい時代だったのです。
ところが、同じ時期に、まったく逆向きの風も吹いていました。ドットコムバブルです。世の中にインターネットが急速に普及し始め、私が働くことになった組織でも、ちょうど一人一台のパソコンが配られ、ホームページを持ち始めた頃でした。それ以前は、数台のワープロをみんなで譲り合って使っていたと、当時の先輩から聞かされたものです。
つまり私は、「氷河期という最悪の逆風」と「IT黎明期という新しい需要」が同時に吹いていた、その裂け目にたまたま滑り込むことができたのです。しかも私が座った椅子は、Aさんという優秀な総務の先輩が退職したことによる欠員補充でした。そのAさんの退職理由は、行政書士として独立開業するためだったのです。
少し立ち止まって考えてみてください。もしAさんが独立を決意していなければ、その椅子は空いていませんでした。もしドットコムバブルが起きていなければ、新しい人手の需要も生まれていませんでした。このどれか一つが欠けていただけで、私の25年間の会社員人生は、そもそも始まらなかった可能性が高いのです。
これを「運」と呼ばずに、いったい何と呼べばいいのでしょうか。経済学者のロバート・フランクは、まさにこうした「ささいな偶然」が人生の明暗を決定的に分けることを論じています。才能があり努力をしても、経済的に成功するのは一握りであり、その明暗を分けているのは、しばしば取るに足らないタイミングや偶然でしかない、と。私の来歴を振り返ると、この指摘は他人事とは思えません。
## 第2章:それでも、椅子に座り続けたのは誰か
では、すべては運で、私の努力に意味などなかったのでしょうか。ここは慎重に論じたいところです。私は、そうは思いません。
たしかに最初の椅子に座れたのは運でした。しかし、その椅子に25年間座り続けたのは、運ではありません。
体調が優れない日もありました。二日酔いで頭が重い朝も、失恋が確定した翌日も、顔を合わせるだけで気が滅入る相手がいても、私は職場に向かい続けました。ワープロからパソコンへと道具が変わる時代の変化にも、なんとか食らいついていきました。席が空いていても、その道具を扱えなければ組織で生き残ることはできません。どれほど運良く入社できても、人間関係や仕事のプレッシャーに耐えかねて辞めていく人は、それこそ星の数ほどいます。
ですから、ここで一つの区別を立てたいのです。すなわち、**「スタートラインに立てるかどうか」と「スタートしてから走り続けられるかどうか」は、まったく別の問題である**、ということです。前者には残酷なほど運が絡みます。しかし後者は、まぎれもなく本人の意志と忍耐の領域です。
この区別は、決して自分を慰めるための詭弁ではありません。むしろ、この二つを混同することこそが、後の章で述べる「能力主義の呪い」の温床になるのです。運で開いたドアを、あたかも自分の実力だけでこじ開けたかのように語ること。あるいは逆に、運で閉ざされたドアの前に立ち尽くす人を、努力不足だと切り捨てること。この二つの混同が、社会をゆがめていきます。
正しい向き合い方は、両方を同時に、しかし分けて認めることだと私は思います。「スタートラインに立てた幸運」には、謙虚に感謝します。「そこから走り続けた耐久力」は、自分の誇りとして静かに認めます。運が良かったという事実は、25年間の踏ん張りをチャラにしません。私の人生は、「運によって開かれたドアを、自分の足で歩き通した人生」だったのだと、いまはそう捉えています。
## 第3章:能力主義は、なぜ人を傷つけるのか
ここで、私の思考を大きく揺さぶった一冊に触れなければなりません。ハーバード大学の政治哲学者マイケル・サンデルの『実力も運のうち 能力主義は正義か?』です。
「運も実力のうち」という言い回しは、よく耳にします。運を引き寄せるのも本人の力だ、という文脈で使われる、どちらかといえば成功者を励ます言葉です。ところがサンデルの原題は、これをきれいに裏返します。すなわち、「実力も運のうち」。あなたが実力だと思っているものすら、その大半は運の産物なのだ、という痛烈な問いかけです。
サンデルが暴いたのは、現代社会が無邪気に信じ込んでいる能力主義(メリトクラシー)の暗い側面です。能力主義は一見、公平で美しい理念に見えます。生まれや身分に関係なく、努力と才能さえあれば誰でも成功できる——身分制社会に比べれば、たしかに大きな前進です。しかし、この理念にはコインの裏側があります。「成功は本人の実力の証だ」と言い切ってしまうと、その裏返しとして「失敗もまた、本人の努力不足の証だ」という残酷な自己責任論が、必然的にセットでついてくるのです。
この論理が社会に広がるとどうなるか。サンデルによれば、成功者は「これは自分が勝ち取ったものだ」という過信から傲慢になっていきます。そして、競争の網の目からこぼれ落ちた人々を、「努力しなかった自業自得だ」と見下すようになります。一方、こぼれ落ちた側は、貧しさや困窮という物質的な打撃だけでなく、「お前が無能だからだ」という社会からの烙印、すなわち深い屈辱を負わされます。この屈辱こそが、現代社会の分断を生み、人々の心に静かな怨嗟を積もらせていく、というのがサンデルの診断です。
ここで、冒頭の被告の話に戻らせてください。誤解のないように、はっきりと申し上げておきます。どれほど運が悪く、困窮し、絶望していたとしても、他者の命を奪ってよい理由には決してなりません。世の大多数の人は、どんなに追い詰められても、その一線を越えずに踏みとどまります。被告が越えたその一線は、彼自身が負うべき責任です。運の問題に還元して免責することは、私はしません。
そのうえで、なお考えるのです。「すべては実力であり、失敗は自己責任だ」という価値観だけが社会を覆い尽くしたとき、網の目からこぼれ落ちた人々は、経済的な困窮に加えて、「お前の存在には価値がない」という全否定のメッセージを浴び続けることになります。その二重三重の絶望が、ごくまれに、人を破滅的な行動へと追い詰める遠因になりうるのです。この構造的な危うさを、サンデルの議論は静かに、しかし鋭く照らし出しています。責任の所在を個人に見据えることと、その個人を追い詰めた社会構造を問うことは、両立するのです。
さらに言えば、この「実力も運のうち」という洞察は、サンデル一人の思いつきではありません。政治哲学の古典であるジョン・ロールズの『正義論』は、すでに半世紀前に、生まれ持った才能の分配も、恵まれた環境も、本人が道徳的に「勝ち取った」ものではない、と論じていました。才能に恵まれて生まれたことは、本人の手柄ではありません。ならば、その才能がもたらす果実を独り占めする資格も、厳密には本人にはない——ロールズはそう考えました。能力主義への懐疑は、決して敗者の負け惜しみなどではなく、正義とは何かを問う思想の本流にしっかりと根を張っているのです。
## 第4章:では、私たちはどう生きればいいのか
構造の話ばかりしていると、息が詰まってきます。ここからは、では一人ひとりが日々どう構えればいいのか、という実践の話に橋を架けたいと思います。
サンデルは、この分断を乗り越える鍵として、意外なほど古風な徳を挙げています。「謙虚さ」です。「私がいま手にしているものは、私の実力だけでなく、幸運の賜物かもしれない」——そう認めることができて初めて、人は他者への連帯感や、不運にして網の目から落ちた人への想像力を取り戻せる、と彼は説きます。
これは、成功者に「自分を卑下せよ」と命じているのではありません。むしろ逆です。自分の足で走り続けた誇りは、堂々と持っていいのです。ただ、そのスタートラインを用意してくれた無数の偶然に対して、頭を垂れる余白を持っておく、ということです。誇りと謙虚さは、両立します。
個人のレベルでは、これはささやかな態度の変化として現れます。うまくいっている人を見て「あいつは運が良かっただけだ」と切り捨てる代わりに、その人の踏ん張りにも目を向けてみます。逆に、つまずいている人を見て「努力が足りない」と裁く前に、その人がどんなスタートラインに立たされたのかを想像してみます。この双方向の想像力が、傲慢と侮蔑の両方から私たちを守ってくれます。
組織のレベルでは、「結果を出せない者は努力が足りない」という単純な物語を、少しだけ疑ってみることができます。その人の前に、そもそもどんな条件が積み上がっていたのか。成功者を称えるのと同じ熱量で、つまずいた人の背景に目を向ける組織は、たぶん人がすり減りにくいのだと思います。
そして社会のレベルでは、これは再分配や機会の平等を、単なる「弱者への施し」としてではなく、「運の偶然性に対する公正な備え」として捉え直すことにつながります。ロールズが論じたのは、まさにこの点でした。誰の身にも降りかかりうる運・不運の恣意性に対して、社会という制度がどう向き合うか。それを「かわいそうな人を助ける」という上から目線の話ではなく、「明日は我が身の備え」として設計すること。ここに、謙虚さが単なる個人の心構えを超えて、制度の思想へとつながる回路があります。
## 第5章:「運だったのか」と気づけたことの意味
最後に、少し個人的な感慨に戻ることをお許しください。
ニュースを見ながら「自分と彼は何が違ったのか、それは運だったのではないか」と考え込むこと。この思考それ自体が、実はサンデルの言う謙虚さの、ささやかだけれど確かな実践なのだと、私は思うようになりました。
もし私が「自分が今こうしていられるのは、すべて自分の実力だ」と信じ切っていたら、被告のニュースを見ても「努力しなかった自己責任だ」で片付けて、二度と思い出さなかったでしょう。そこには連帯も想像力も生まれません。「運だったのかもしれない」とたじろぐことができたからこそ、私は彼を——同意はできないにせよ——同じ社会に生きる一人の人間として、想像の圏内に置くことができました。この揺らぎこそが、傲慢さから最も遠い場所に私を立たせてくれたのだと思います。
もちろん、これで社会の分断が解決するわけではありません。能力主義は、私たちの内側にまで深く食い込んでいて、そう簡単には抜けません。成功すれば、人はまた「これは自分の力だ」と思いたくなります。その誘惑は、おそらく一生消えないでしょう。だからこそ、この謙虚さは一度手に入れれば終わりというものではなく、繰り返し思い出し続けるしかない類いのものなのだと思います。
それでも、問いを立てておきたいのです。あなたがいま立っている場所は、どれだけの偶然に支えられているでしょうか。そして、あなたのすぐ隣でつまずいている誰かは、どんなスタートラインに立たされていたのでしょうか。この問いを手放さずにいられるかどうかに、これからの社会が分断へ向かうのか、連帯へ向かうのかが、案外かかっているのかもしれません。
## おわりに
私が本稿を通じて申し上げたかったのは、突き詰めれば一つのことです。成功の起点には、認めたくないほど大きな運が働いています。しかしその事実は、あなたの努力を無価値にするものではなく、むしろあなたを傲慢から救い、他者とつながり直すための、静かな贈り物なのだ、ということです。
「結局、運なのかよ」と虚しくなったあの瞬間、私はどこかで敗北感のようなものを味わっていました。けれど今は、少し違う受け止め方をしています。運だったと気づけたことは、負けではありません。それは、自分の人生の危うさと有り難さの両方を、同時に見つめられるようになったということです。
壊れたエアコンの部屋で、いまこうして穏やかにキーボードを叩いていられること。それが当たり前ではなかったのだと知っていること。この小さな自覚を持ち続けられる限り、私はきっと、あの一線の手前で踏みとどまり続けられるはずです。そう信じて、今日も静かにこの一日を大切にしたいと思います。
## 予想される反論と、それに対する見解
### 反論1:「運だ」と言い出したら、努力する意味がなくなり、人は怠惰になるのではないか
もっともな懸念です。しかし本稿は「すべてが運だ」とは主張していません。第2章で述べた通り、スタートラインは運でも、そこから走り続けるのは本人の意志です。むしろ「運の要素がある」と認めることは、努力を否定するどころか、「限られた条件の中で自分にできることをやろう」という現実的な構えを促します。努力を無意味にするのは運の自覚ではなく、「努力さえすれば必ず報われる」という過剰な期待が裏切られたときの絶望のほうです。
### 反論2:犯罪の原因を「運の不足」に帰すのは、加害者を免責する危険な相対主義ではないか
これは最も痛いところを突く反論であり、私も最も慎重に扱いたい論点です。第3章で明示した通り、私は加害の責任を運に還元して免責するつもりは一切ありません。一線を越えた責任は、越えた本人が負うべきものです。本稿が問うているのは、個人の責任を消すことではなく、その個人を極限まで追い詰めた社会構造もまた同時に問われるべきだ、という二階建ての視点です。責任追及と構造分析は、どちらか一方を選ぶものではなく、両立します。
### 反論3:成功者に「謙虚であれ」と説くのは、結局きれいごとの精神論ではないか
心構えの話に見えるのは事実です。しかし第4章で示したように、この謙虚さは個人の内面にとどまらず、組織のマネジメントや、社会の再分配制度の設計思想にまで接続します。「運の偶然性への公正な備え」として制度を捉え直すことは、単なる感情論ではなく、ロールズ以来の政治哲学が積み上げてきた具体的な制度論の系譜に連なります。精神論を制度論の入口として使う、という位置づけです。
### 反論4:あなたの成功はたかだか一会社員の25年であって、それを「成功」と呼んで運を語るのは大げさではないか
その通りかもしれません。私の来歴は、世間的に華々しい成功では全くありません。しかし本稿の論点は、成功の大きさではなく、「どんな規模のものであれ、それが立っている土台には偶然が含まれている」という構造にあります。むしろ、ささやかな安定こそ、その脆さと有り難さが見えやすいものです。巨大な成功を収めた人ほど、自分の実力を過信しやすいという逆説を思えば、等身大の来歴から運を語ることには、それなりの意味があると考えています。
### 反論5:運を強調する議論は、恵まれた人が「自分は運が良かっただけ」と気楽に言うための免罪符になり、かえって欺瞞的ではないか
鋭い指摘です。たしかに「運が良かっただけ」という言葉は、努力できる環境にいた人の余裕から出た、上から目線の自己満足に堕する危険があります。だからこそ本稿は、その言葉を「感謝」と「連帯の行動」にまで接続することを求めています。謙虚さが口先だけで終わり、他者への想像力や制度への関与に結びつかないなら、それはたしかに欺瞞です。謙虚さは、態度表明ではなく実践によってのみ本物になります。
### 反論6:時代や社会構造のせいにするのは、結局のところ自分の人生を引き受けない態度ではないか
これも一理あります。しかし、自分の人生を引き受けることと、その人生を取り巻く構造を直視することは、矛盾しません。むしろ、構造を正確に見据えたうえでなお「その中で自分は何をするか」と問うことこそ、成熟した引き受け方だと私は考えます。構造を無視して「すべては自分次第」と信じ込むのは、勇ましく聞こえて、実は現実から目を背けているのです。
## 参考文献
- 書籍:『実力も運のうち 能力主義は正義か?』マイケル・サンデル著、鬼澤忍訳(早川書房, 2021年)[Amazon](https://www.amazon.co.jp/dp/4152100168?tag=digitaro0d-22)
- 書籍:『成功する人は偶然を味方にする 運と成功の経済学』ロバート・H・フランク著、月沢李歌子訳(日本経済新聞出版社, 2017年)[Amazon](https://www.amazon.co.jp/dp/4532357233?tag=digitaro0d-22)
- 書籍:『正義論(改訂版)』ジョン・ロールズ著、川本隆史・福間聡・神島裕子訳(紀伊國屋書店, 2010年)[Amazon](https://www.amazon.co.jp/s?k=正義論+ロールズ&tag=digitaro0d-22)
- データ:就職氷河期世代の就業等の動向 - 内閣官房就職氷河期世代支援推進室(2024年12月)[URL](https://www.cas.go.jp/jp/seisaku/shushoku_hyogaki_shien/suishin_platform/dai6/siryou1.pdf)
- データ:就職氷河期世代考察~「人生100年時代における結婚・仕事・収入に関する調査」より - 内閣府男女共同参画局(令和4年)[URL](https://www.gender.go.jp/about_danjo/whitepaper/r04/zentai/html/column/clm_05.html)
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### 著者プロフィール
kentrue(yousystem)
フリーランスクリエイティブエンジニア/現代社会構造分析フリーク/ミュージシャン/ビジネス寓話創作者/思想家/キャバクラ愛好家
麗澤大学不合格、中央学院大学不合格、千葉商科大学不合格、城西国際大学不合格、
日本大学農獣医学部食品経済学科不合格、明治大学商学部二部不合格、
日本大学法学部法律学科二部不合格、神奈川大学不合格、法政大学二部不合格、
専修大学石巻短期大学部不合格、千葉経済大学不合格、
日本大学短期大学部合格、日本大学経済学部1年の留年を経て卒業
ハッシュタグ
#能力主義 #メリトクラシー #サンデル #実力も運のうち #自己責任論 #謙虚さ #格差社会 #就職氷河期
記事情報
公開日
2026-07-13 13:22:38
最終更新
2026-07-13 13:22:39