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なんちゃって関係論——装飾を剥がした先にある、自立者同士のゆるやかなつながり
## はじめに
「フレンドフレーション」という言葉を、最近目にされた方もいらっしゃるのではないでしょうか。Friend(友人)とInflation(インフレ)を掛け合わせた造語で、物価高の長期化にともない、若い世代が友人関係にもコスパ的な視点を持ち込み始めた現象を指すそうです。「飲み会に六千円払うくらいなら、一人でしっかりしたご飯を食べたほうがいい」——そんな発想が広がり、食事会や集まりへの参加を見極める人が増えているといいます。
この話題に触れたとき、私はどこか違和感を覚えました。もちろん、「最近の若者はけしからん」といった説教じみた違和感ではありません。むしろ、この現象を語る枠組みそのものに、何か大事なものが抜け落ちているのではないか、という直感です。
本論考でお示ししたいのは、ひとつのシンプルな問いです。
物価高で揺らぐような関係は、そもそも友情と呼べるものだったのでしょうか。
そして、この問いを丁寧に追っていくと、私たちはフレンドフレーションという時事的な話題をはるかに超えて、「本物の友情とは何か」「装飾のない関係はどう立ち上がるか」「自立した個人同士の結びつきはどう描けるか」という、ずっと根本的なテーマに辿り着きます。
その終着点に待っているのは、「なんちゃって関係」という作法です。一見するとシニカルに響きますが、実はきわめて誠実な、むしろ成熟した関係のあり方だと私は考えています。
どうぞ、ゆっくりご一緒ください。
## 第1章:フレンドフレーションを覆う、隠された前提
### 現象としての輪郭
フレンドフレーションという言葉がメディアに登場したのは、ここ数年のことです。物価高の長期化にあわせて、若い世代が交際費の使い方を見直し始めた現象を、ジャーナリズムがこう呼ぶようになりました。
ABEMA TIMESが配信した『わたしとニュース』の記事(二〇二六年)では、この現象がお笑い芸人の白鳥久美子氏のコメントや、日本総合研究所の小方尚子主任研究員の分析を交えて取り上げられていました。小方氏は「食料や光熱費などの必需的な支出を中心に物価高が進行する一方、物価高に追いつく賃金上昇を実現している人は多くない。そのため、必需性の低い交際費などが節約の対象になりやすい状況」だと指摘しています。あわせて、アメリカのネットバンクの調査で二十代から四十代の四十四パーセントが費用を理由に友人らとの重要なイベントを断った経験がある、という海外データも紹介されていました。
なるほど、と思いつつ、私はこの記事を読みながら何度も立ち止まることになりました。そこには、静かに埋め込まれた、ある前提があったからです。
### 前提の正体——「友達付き合い=消費行動」
フレンドフレーションを語る記事群に共通するのは、「友達と会う=お金がかかる」という暗黙の前提です。外食、プレゼント交換、イベント参加、飲み会——それらが友情活動の標準形として想定されていて、そこに物価高が襲いかかることで付き合いが困難になる、という構図で話が進みます。
しかし、ここでいったん立ち止まりたいのです。友達と会うことに、本当にかならずお金が必要なのでしょうか。
私の知るかぎり、本当に気の置けない関係というのは、ほとんどが無料に近いやり取りで成り立っています。お互いの家で安いワインを開けて話すだけで十分楽しい。散歩しながら喋るだけでいい。図書館で並んで本を読んで、出たあとにコンビニで缶コーヒーを買って公園で飲む。交通費すら、自転車で行ける距離なら要りません。
「友達付き合い=消費行動」という前提は、そもそも高度に商業化された交友観を、無批判に受け入れているように私には見えます。誕生日はレストランで、記念日にはプレゼントを、集まれば居酒屋で——そういう「型」が先行してしまっていて、そこに支払う費用の多寡で友情の深さを測るかのような錯覚が生まれている。
### 「コスパで測れる関係」という違和感
総務省の家計調査には「交際費」という分類があります。内訳を見ると、興味深い事実が浮かんできます。そこに集計されるのは、接待費、職場や地域の付き合いでの会費、知人への贈答などが中心です。つまり、社交上の義務として発生する支出が中核で、親しい友人との日常的なやり取りに伴う支出は分類上の中心ではありません(総務省統計局『家計調査(家計収支編)』)。
言い換えると、フレンドフレーションで語られる「減った支出」は、もともと友情そのもののコストというより、社交上の慣習に伴う費用だったということになります。
ここに、本論考の筋がうっすらと見えてきます。物価高で削られているのは、厳密には「友情維持費」ではなく、「社交維持費」なのではないか、と。
そもそも「コスパで測れる関係」というのは、コスパを計算しても違和感が生じない関係のことです。親子関係に向かって「今週の親子コスパはいかほどか」とは誰も問いません。本当の友情に対しても、同じ問いは本来成立しにくいはずなのです。
## 第2章:装飾された関係と、装飾されない関係——本物は経済変動で切れない
### ある旧友の話
ここで、具体的な話をひとつ差し挟ませてください。私には、中学時代からの友人が一人います。もう四十年近い付き合いになります。
彼とは、年に一度も会わない年もあります。連絡も、ときどきメールをやり取りする程度です。ただ、私が彼に会いたいと思ったときは、自転車で彼の家まで向かいます。手土産として、彼の銘柄のタバコを一箱と、カフェインが苦手な彼のために麦茶を買っていきます。私は自分用にビールを一缶買っていく。三十分ほど雑談して、また自転車で帰ってくる——ただそれだけです。
この付き合いの経済学を計算してみましょう。年に一度会うとして、交通費はゼロ、飲食店代もゼロ、かかるのは缶飲料とタバコ代で合わせて二千円にも届きません。四十年の交友で、推定総支出は八万円ほどでしょうか。
この関係は、インフレが来ようが、デフレが来ようが、不景気になろうが、まったく揺らぎません。なぜか。そもそも揺らぐほどのコストがかかっていないからです。
そしてここが重要なのですが、私たちはお金をケチっているわけではありません。コスパを最大化しようと知恵を絞っているのでもない。ただ、自然とそうなっているだけなのです。
見栄を張る必要がないから、外食する発想が湧かない。気を使う必要がないから、長居しない。連絡を取らなくても関係が切れない確信があるから、頻繁に会う必要がない。関係そのものが成熟しきっていて、装飾がまったく不要なのです。
### 装飾された関係、装飾されない関係
この旧友の例は、ある対比を浮かび上がらせます。装飾された関係と、装飾されない関係との対比です。
装飾された関係は、関係を成立させるために、何らかの外付け要素を必要とします。外食の場、イベントの参加、SNS上での儀礼的なやり取り、贈答の習慣。そうしたものが絶えず供給されていないと、関係が維持できない。いわば、関係の接着剤として経済活動が機能しているわけです。
この接着剤の供給コストが上がるとどうなるか。当然、関係が維持しにくくなります。フレンドフレーションは、まさにこの「接着剤コストの高騰現象」として理解できます。
一方、装飾されない関係は、関係そのものが自立しています。外食がなくても、プレゼント交換がなくても、頻繁な連絡がなくても、存在自体が揺るがない。
両者の違いは、関係の本質に対する外部依存度の違いと言えるでしょう。
### フレンドフレーションが暴いたもの
ここまで来ると、フレンドフレーションという言葉の射程が、大きく変わって見えてきます。
「物価高で友達付き合いが難しくなった」という表層の嘆きは、裏を返せば、「装飾に依存していた関係が、装飾コストの上昇で維持できなくなった」という話に他なりません。そして、装飾に依存していた関係とは、そもそも友情と呼ぶに値するものだったのか——私たちはそこを問う必要があります。
正確に名づけるなら、フレンドフレーションは「アクウェインタンスフレーション」(知人関係インフレ)とでも呼ぶべきだったのかもしれません。あるいは「ソーシャライジングフレーション」(社交インフレ)でしょうか。切れているのは、多くの場合、友情ではなく社交なのです。
本物の友情は、そもそもインフレの射程の外にあります。私と旧友の関係のように、経済変動とは無関係な場所に、静かに存在しているのです。
### 「液状化した愛」との呼応
この議論は、現代社会論の領域とも響き合います。社会学者ジグムント・バウマンは、現代の人間関係を「液状化」した状態として描き、愛や友情も流動的で消費的な性格を強めていると指摘しました(ジグムント・バウマン『リキッド・モダニティ——液状化する社会』森田典正訳、大月書店、二〇〇一年)。装飾に依存した関係は、まさにこの液状化した関係の典型だと言えるでしょう。固体のように揺るがない関係に比べ、液体のようにコンテナ(場や費用)がなければ形を保てない。
バウマンの見立てに沿うなら、フレンドフレーションは「液状化した関係」が、物価高というコンテナの収縮によってこぼれ落ちている現象だとも言えます。こぼれ落ちるもの自体を嘆くより、そもそも何が「液体」で、何が「固体」なのかを見極めることのほうが、ずっと本質的な作業なのではないでしょうか。
## 第3章:友愛の三分類と、私たちの認識の混乱
### アリストテレスの見立て
こうした議論は、じつは古代ギリシア以来の哲学的問いと地続きです。
アリストテレスは『ニコマコス倫理学』において、友愛(フィリア)を三種類に分類しました(アリストテレス『ニコマコス倫理学』高田三郎訳、岩波文庫)。
第一は、有用性に基づく友愛です。お互いの利益や便益のために成立する関係で、商取引の相手、仕事上の付き合い、ネットワーキングの関係などがここに含まれます。
第二は、快楽に基づく友愛です。共にいて楽しい、気晴らしになる、娯楽を共有できる——そうした理由で成立する関係です。飲み仲間、趣味のサークル仲間、遊び仲間がこれに相当します。
第三は、善(徳)に基づく友愛です。相手の人柄そのものを愛する関係で、相手が相手であることそのものに価値を置きます。利益が消えても、楽しみが減っても、揺るがない関係です。
アリストテレスが真の友愛と呼んだのは、第三の「善に基づく友愛」でした。第一と第二は、それを成立させる要素が消えれば、関係も自然消滅すると彼は見ていました。利益が途切れれば有用性の友愛は終わり、楽しみが途切れれば快楽の友愛も終わる。
### 三分類で読み解くフレンドフレーション
この枠組みでフレンドフレーション現象を見直すと、一気に風景が変わって見えてきます。
物価高で切れていく関係は、ほぼ確実に第一(有用性)または第二(快楽)の友愛です。つまり、アリストテレスが「真の友愛ではない」と分類した領域の関係です。
第三の友愛、善に基づく友愛は、物価高の影響を原理的に受けません。相手の人柄そのものを愛しているのですから、経済変動で愛する理由が消えるわけがない。
ここに、議論の核心があります。フレンドフレーションで苦しんでいる人がもしいるとすれば、それは第一・第二の友愛を第三の友愛と思い込んでいたという、構造的誤認の苦しみなのです。
### なぜ混同が起きるのか
では、なぜこの混同が起きるのでしょうか。
現代の社会的文脈では、「友情」という言葉がきわめて曖昧に使われています。SNSのフォロワー、飲み会で一度知り合っただけの人、たまに連絡を取り合うだけの知人、学生時代の同級生、本当に心を許せる親友——これらすべてが「友達」という一語でまとめられてしまう。
エーリッヒ・フロムは『愛するということ』で、愛は技術であり学習の対象だと述べました(エーリッヒ・フロム『愛するということ 新訳版』鈴木晶訳、紀伊國屋書店、二〇二〇年)。愛することには区別する力が必要で、受け身的に落ちるものではなく、能動的に立ち上げ続けるものだと彼は説きます。
友情にも同じことが言えるはずです。関係の種類を区別する知性がなければ、私たちは自分の友情地図を正確に描けません。結果として、有用性の関係を真の友愛と混同し、それが経済変動で揺らいだときに「友情が失われた」と嘆くことになる。
フロムが愛について言ったのと同じ意味で、友情もまた「区別する技術」を要求するのです。
### ダンバー数から見える階層構造
進化心理学者のロビン・ダンバーは、人間が安定的に維持できる関係には上限があることを示しました。いわゆるダンバー数で、その中核値は約百五十人とされますが、実はこれは階層構造を持っています(ロビン・ダンバー『友達の数は何人?——ダンバー数とつながりの進化心理学』藤井留美訳、インターシフト、二〇一一年)。
最も親密な層は五人程度、次の層で十五人、その次で五十人、そして百五十人、五百人、千五百人へと広がっていく。それぞれの層で、接触頻度も関係の質も異なります。
この構造から見ると、フレンドフレーションで削られる関係というのは、ほとんどが五十人から百五十人の層にある関係だと推察できます。月に一度や数か月に一度会う、そうした中距離の関係です。
一方、最内層の五人や十五人との関係は、物理的に削ろうとしても削れません。なぜなら、そこに含まれる人との関係は、そもそも「お金がかからない質」に収斂していく自然な力学があるからです。親密になればなるほど、装飾は不要になっていく。
つまり、ダンバーの階層構造で言えば、フレンドフレーションの対象は中間層の関係です。ここは本来、知人と友人の境界領域にあたり、ジンメルが言うところの社会的距離の微妙なゾーンです(ゲオルク・ジンメル『社会学』居安正訳、白水社)。ここが経済変動で揺らぐのは、むしろ構造的に自然なことだとも言えます。
### 日本社会における「つながり」の変容
日本社会に視点を絞ると、この混同はさらに深刻な形で現れます。社会学者の石田光規氏は、現代日本人の人間関係が「義理」から「選択」へとシフトし、選ばれなかった人が静かに孤立していく構造を繰り返し指摘しています(石田光規『孤立の社会学——無縁社会の処方箋』勁草書房、二〇一一年)。
また、土井隆義氏は、SNS時代の若者が常時接続を強いられながらも、そのつながりが薄く消費的なものになっていく様を描いています(土井隆義『つながりを煽られる子どもたち——ネット依存といじめ問題を考える』岩波ブックレット、二〇一四年)。
日本の若者がフレンドフレーションで悩むとき、そこには「選ぶ/選ばれる」というプレッシャーと、「常時つながっていなければならない」という強迫観念が、二重に絡んでいる可能性があります。物価高は、こうした二重の圧力の息苦しさを露わにする、いわば最後の一押しになっているのかもしれません。
## 第4章:「なんちゃって関係」という誠実さ——偽物を偽物と認める作法
### お金で切れる関係は、本当に悪なのか
ここまでの議論をまとめれば、フレンドフレーションで切れる関係は「真の友情ではなかった」ことになります。ただし、これは切れていく関係を全否定するという意味ではありません。
私は、お金で成立している関係そのものを悪とは思いません。問題は、それを「本物の友情」と偽って演じてしまうところにあります。
例えば、お金で成立している男女関係——愛人関係、パパ活、婚活市場的な条件マッチング——が「不健全だ」「悲しい」と評されるのは、多くの場合、双方の一方が割り切っていて、他方が「愛されている」と思い込んでいるからです。認識のずれが苦しみを生みます。
ところが、双方が「これは本物の愛ではない、お金で成立している契約関係だ」と完全に共通認識を持っていたらどうでしょう。それは、むしろ嘘のない、一種の健全な契約関係として成立します。
この論理を友情にそのまま持ち込むのが、本論考の中心的な提案です。
### 「なんちゃって友達」という契約
つまり、こういう関係のあり方が想像できるのです。
「私たちは本物の友達ではありません。物価高で切れる程度の関係です。外食と飲み会とイベントで成立しているビジネスライクな社交ネットワークです。以上を双方了承の上、関係を続けます」
一見、かなりシニカルに響きますね。けれども、よく考えてみると、これは実はきわめて誠実な関係の作法です。
世の中で人間関係の歪みが生じるのは、多くの場合、「本物の友達ごっこ」を演じてしまうからです。SNSで親友アピールをし、誕生日に大げさに祝いあい、「一生の友」などと言いあう。しかし実態は、経済的接着剤で保たれた薄い関係である。このギャップが、インフレのような外的ショックを受けたときに、苦しみとして噴出します。
だったら、最初から「なんちゃって友達」だと自覚しあい、双方がそれを認めたうえで付き合う方が、はるかに透明で清潔です。物価高で切れても「ああ、想定通りだね」で済む。契約満了、以上。切れたことに、罪悪感も悲しみも伴いません。
三木清は『人生論ノート』の中で、友情というものはその気まぐれさや移ろいやすさを含めて見つめるべきだと示唆しています(三木清『人生論ノート』新潮文庫)。人生のある時期に存在していたが、別の時期には消える関係——それは失敗でも喪失でもなく、関係の自然な姿の一部なのかもしれません。
### 偽物を本物と偽らない誠実さ
ここで、重要な論点を明示しておきましょう。
「なんちゃって」契約の価値は、虚飾を剥いだ誠実さにあります。お互いに過剰な期待をかけない。相手を本物の親友と偽らない。関係が終わっても、それを裏切りとして受け止めない。
この誠実さは、むしろ深い人間理解から生まれます。人間関係には濃度の異なる層があり、すべてが最濃度である必要はない——そのことを受け入れられる認識の成熟がそこにはあります。
さらに、ここには思わぬ副次効果があります。自覚的に「なんちゃって友達」カテゴリを持つことで、逆に「本物の友達」の輪郭が鮮明に浮かび上がるのです。すべてを「友達」という一つの単語に押し込めるから、認識が混乱する。カテゴリを分ければ、それぞれに適切な期待値と距離感で接することができる。
先に触れたような装飾のない関係は、こうして整理された地図の上で、ようやく真の価値を発揮します。
### 「なんちゃって恋人」への射程
この発想は、友情にとどまりません。男女関係や恋愛関係にも、そのまま応用できます。
「僕となんちゃって恋人になってくれませんか」
真顔で言えば、相手はおそらく一瞬凍りつくでしょう。しかし、先ほどの友情の論理とまったく同じ構造で、この提案に笑って乗れる人こそ、実は本物の関係に発展する可能性を秘めた相手だと言えます。
世の中の恋愛関係の多くは、「本物の恋愛ごっこ」から始まります。「運命の出会い」「あなたしかいない」「一生愛する」といったテンプレートを、お互いなんとなくなぞりながら関係を立ち上げる。しかし実態は、条件や利害や承認欲求で成立していることが多い。このギャップが、のちに「こんなはずじゃなかった」という苦しみを生みます。
それに対して、「なんちゃって恋人」契約は、最初から本物のフリをしないことを約束する関係です。
- 運命だとは言わない
- 一生を約束しない
- 互いを所有しようとしない
- 期待値をゼロから始める
この前提を共有できた二人は、むしろ深いところで繋がれる可能性を持ちます。なぜなら、お互いが素の自分で接しているからです。演技しなくていい、盛らなくていい、本物のフリをしなくていい。
そして、装飾のない関係において初めて、本物の繋がりが——もしそれが本物であるならば——静かに立ち上がってくるのです。
## 第5章:自立者同士のゆるやかなつながり——「なんちゃって」を生きる条件
### 「なんちゃって」を提案できる人の条件
ここで、一歩踏み込んで述べたいことがあります。「なんちゃって関係」を提案できる人と、それに乗れる人には、ある共通の条件があるということです。
それは、自立していることです。
相手に依存していない。寂しさを埋めるために関係を求めていない。見栄のために関係を作ろうとしていない。自分一人で十分に成立している人が、「もしよかったら、なんちゃってで一緒にいませんか」と余裕をもって誘うことができます。
逆に、自分の中に空洞を抱えている人には、「なんちゃって」提案はできません。そういう人は、本物の愛や本物の友情で空洞を埋めようとするからです。本物であると信じ込まないと、関係から得たいものが得られない。だから、偽物であることを双方が認めあう契約など、耐えられないのです。
これは、先ほど触れたフロムの『愛するということ』の洞察と地続きです。フロムは、愛することができるためには、まず自分自身との関係が成熟している必要があると説きました。自己への信頼、孤独に耐える力、生産的に生きる態度——これらが揃って初めて、相手に与えることができる愛が成立する。
「なんちゃって関係」も、まったく同じ構造を持っています。まず自分自身で立てている人だけが、他者と縛りなく結びつけるのです。
### 自立者同士のネットワーク
こうして立ち上がってくるのは、自立者同士の、ゆるやかなネットワークです。
お互いに必要はない。だからこそ、一緒にいる時間が純粋に贈与となる。誰かが誰かを埋めているのではなく、すでに完結している二人が、たまたま交差点で出会い、その交差点が心地よくて、ときどき戻ってくる——そんな結びつき。
これは、ロバート・パットナムが『孤独なボウリング』で描いた、アメリカにおけるコミュニティ崩壊の現象への、ひとつの逆説的な回答とも言えます(ロバート・D・パットナム『孤独なボウリング——米国コミュニティの崩壊と再生』柴内康文訳、柏書房、二〇〇六年)。
パットナムは、社会関係資本(ソーシャル・キャピタル)の減衰を嘆きました。ボウリングリーグに参加せず一人でボウリングする人々が増えている——それは孤独な社会の象徴だ、と。
しかし、私はこう思うのです。大事なのは、かつての型通りの社交に戻ることではなく、自立した個人が自発的に結び直す、新しい結びつきの作法を発見することではないか、と。
「なんちゃって関係」という作法は、その萌芽かもしれません。無理な結束を作らない。経済的接着剤に依存しない。それでも、人は出会い、語らい、助けあう。自立していることと、つながっていることは、決して矛盾しないのです。
### 「俺教」的自己完結性
ここで、個人的な呼び名で恐縮ですが、私はこうした自己完結のあり方を「俺教」と内々に呼んでいます。他人の目から離れ、自分の内側に基準を置き、そこから世界を見る作法のことです。
俺教的な人間にとって、友情は自分の基準で選ぶものです。外部経済要因にブレません。付き合う相手を外側の事情で決めないからです。物価高だろうが、流行だろうが、社会の目線だろうが、関係の選択基準に影響しません。
逆に、外側に基準を置いている人は、付き合う相手も外側の事情で決めます。だから物価に振り回される。装飾の費用が上がれば関係が切れる。装飾がそもそも関係の本体だったからです。
「なんちゃって関係」は、俺教的な自己完結から自然に生まれる作法だと、私は考えています。自分の中に基準がある人は、関係の虚飾を剥いでも怖くない。虚飾の下にある素の自分で十分だと知っているからです。
### フレンドフレーション時代を、どう生きるか
以上の議論を踏まえて、フレンドフレーション時代を生きる具体的な示唆を、三つだけ差し上げたいと思います。
第一に、自分の関係地図を、アリストテレスの三分類とダンバーの階層構造を借りて一度可視化してみてください。最内層の二〜五人、次の層の十五人、中間層の五十〜百五十人。その中間層の中に、経済的接着剤で保たれている関係がどれほどあるか、静かに棚卸ししてみる。
第二に、中間層の関係に、そっと「なんちゃって」というラベルを心の中で貼ってみてください。声に出して宣言する必要はありません。「この人とは、なんちゃって友達として付き合っている」「これは社交であって友情ではない」と静かに区別をつけるだけで、相手に対する過剰な期待が消え、関係のコストが上がったときに無理に維持しようとしなくなります。同時に、その関係を軽蔑するのでもなく、淡々と楽しめるようになります。「なんちゃって」は、相手への侮辱ではなく、過剰な意味づけから相手を解放する、ひとつの寛容の作法なのです。
第三に、最内層の関係には、逆に装飾を一切加えないでください。高価な贈り物はいりません。豪華な食事もいりません。記念日を大袈裟に祝う必要もありません。SNSでアピールする必要もありません。装飾を一切外した姿で相手と向きあう。缶コーヒー一杯の時間を大事にする。自転車で行ける距離に、何か食べ物を持って立ち寄る。メールでささやかな近況を送る。それで十分です。装飾がないからこそ、関係は強くなります。経済変動の射程外に、関係が自然と位置づけられていくからです。
### フレンドフレーションという「窓」
最後に、この論考の最も大きな気づきを述べさせてください。
フレンドフレーションは、単なる経済現象にとどまりません。少なくとも四つの層で読み解けます。
表層では、物価高で若者の交際費が減っている、という経済解説になります。そこから一段降りると、「コスパで切れる関係は、本物の友情と呼べるのか」という関係性の問いが現れます。さらに降りると、「本物と偽物を自覚し、受容できるか」という認識の問いに至ります。そして最深部では、「自立した個人として、装飾のない関係を結べるか」という倫理的・思想的な問いが立ち現れます。
表層だけを撫でている論評が多いなかで、本論考はあえて層を降りる迂回路を取りました。そうすることで、フレンドフレーションは損失の時代の話ではなく、むしろ発見の時代の入り口になる可能性を持ち始めます。
経済現象としてのフレンドフレーションは、経済が回復すれば消えるかもしれません。しかし、それが私たちに投げかけた問いは、経済の波を越えて残ります。「あなたの関係、それは本当に友達でしたか?」——この問いを受け取れる準備ができた人にとって、フレンドフレーションは、人間関係を静かに編み直すための、思いがけない窓になります。
## おわりに
本論考を振り返ると、私たちは「物価高で友達付き合いが減っている」という小さな話題から出発して、「人間関係の本質とは何か」「自立者同士の結びつきとはどのような形か」という大きな問いまで辿り着きました。
中心的な主張は、たった一つのフレーズに集約できます。
**「装飾で揺らぐ関係は、そもそも友情ではない。装飾を剥いでも揺るがない関係だけが、真に自分の友情地図に記載すべきものである」**
そして、装飾で揺らぐ関係を全否定するのではなく、それを「なんちゃって」として自覚的に受容する作法こそが、現代において最も成熟した人間関係の形ではないか——これが私の提案です。
この論考をお読みくださった方に、もし何か残るものがあるとすれば、それはシンプルな三つの動作かもしれません。
第一に、自分の関係地図を見直してみる動作。
第二に、中間層の関係に「なんちゃって」というラベルをそっと貼ってみる動作。
第三に、最内層の関係に対しては、装飾を加えず、ただあることを大切にする動作。
この三つを実践するだけで、フレンドフレーションのような外的ショックに対して、人間関係はぐっと強靭になります。そして何より、自分自身の人生が、軽やかに、そして深く、回り始めるのを感じられるはずです。
もちろん、開かれたままの問いもあります。「なんちゃって」を宣言する際、相手がそれに乗れなかった場合、関係はどうなるのか。子育てや介護のような、明らかに本物の情緒的支えを必要とする局面で、「なんちゃって」はどこまで通用するのか。制度としての家族や友人と、「なんちゃって」作法は両立するのか。これらは本論考で結論を出し切れない問いであり、読者のみなさんと一緒に考え続けていきたいテーマです。
最後に、個人的な話に戻らせてください。四十年来の旧友と、年に一度、自転車で会いに行く——その二千円の時間が、私にとって最も価値のある人間関係の時間だったりします。そこにはインフレもデフレもありません。あるのは、ただ素の私たちが並んで座って、缶ビールを開ける音だけです。
あなたにも、そういう関係があるといいな、と思います。
もしなかったとしても、焦る必要はありません。「なんちゃって友達になってくれませんか?」と、心の中でそっと誰かに提案してみるところから、始めてみてもいいのかもしれません。
そうして始まった関係のうちのどれか一つが、四十年後に、あなたの自転車の行き先になっているかもしれません。
## 予想される反論と、それに対する見解
### 反論1:「なんちゃって関係」なんて言ったら、相手に失礼では?
これは、最も多く寄せられそうな反論です。たしかに、「あなたは私の本物の友達ではない」と面と向かって告げるのは、礼を失する行為に見えます。
しかし、本論考の提案は、必ずしも声に出す必要はないというものでした。自分の中で静かに区別をつけるだけで、多くの効果が得られます。仮に宣言する場合でも、それは相手を軽んじるためではなく、お互いに過剰な期待をかけずに済ますためです。むしろ、相手を本物の友達と偽って演じつづけるほうが、長期的には大きな失礼につながる可能性があります。
### 反論2:お金がかからない関係だけが本物、というのは極論では?
その通りです。お金がかかる関係がすべて偽物だとは、私も主張していません。旅行に一緒に行く、高級なレストランで特別な夜を過ごす——そうしたお金のかかる体験が、本物の友情の一部を彩ることは当然あります。
私が指摘したいのは、関係の存続がお金に依存しているかどうかという点です。お金がかかっても、かからなくても、関係が揺るがない——それが本物の判定基準です。経済変動で切れる関係は、お金が関係の接着剤になっていたということであり、本物の条件を満たしていなかったと見ることができます。
### 反論3:若者の節約志向を擁護しすぎでは?
本論考の視点は、若者擁護でも若者批判でもありません。むしろ、フレンドフレーションを世代問題として語る枠組みそのものを、脱構築したいと考えています。
コスパで関係を切るのは、若者だけの現象ではありません。中高年も、高齢者も、経済的合理性で関係を選別することは日常的に行っています。若者に特有の現象として扱うことで、むしろ問題の普遍性が見失われる危険があります。
### 反論4:社交ネットワークの価値を低く見積もりすぎでは?
これは鋭い指摘です。社交ネットワークは、仕事の機会、情報の流通、社会的信用の構築といった面で、たしかに価値を持ちます。本論考は、それを否定するつもりはありません。
ただ、社交ネットワークを「友情」と呼ぶことの精度の低さを問題視しています。社交は社交として価値を持つし、友情は友情として価値を持つ。両者を混同することで、それぞれの価値が見えにくくなる——というのが私の立場です。
### 反論5:「なんちゃって恋人」なんて、相手を物扱いしている
この反論は、提案の表面だけを捉えているように思えます。「なんちゃって恋人」提案は、むしろ相手を所有しようとしないという意思表示です。運命の相手として相手の人格を一方的に定義したり、一生の約束で相手の未来を縛ったりすることこそが、じつは相手を物扱いする側面を持ちます。
「なんちゃって」契約は、相手の自律性を最大限に尊重する、一種のミニマリスト的な関係設計です。装飾を剥ぐことで、相手が相手であることを、より純粋に見つめる作法だとも言えます。
### 反論6:ずっと「なんちゃって」のままだと、結局深い関係は築けないのでは?
これも興味深い反論です。しかし、本論考で述べたように、「なんちゃって」からスタートすると、しばしば逆転現象が起こります。期待値がゼロに設定されているため、すべての相互作用が加点方式となり、気づいたときには深い関係になっていることがあります。
むしろ、「本物の友達になろう」と宣言して始まった関係のほうが、重い期待値ゆえに折れやすい場合があります。「なんちゃって」は、深さを否定する作法ではなく、深さが自然に立ち上がるのを待つ作法なのです。
### 反論7:ダンバー数や階層構造を持ち出すのは、関係を数値化しすぎでは?
たしかに、人間関係を数理モデルで語ることには限界があります。しかし、私が参照したのは厳密な数値ではなく、構造の存在です。親密さには層があり、すべての関係が同じ濃度であるわけではない——この経験則を、科学的知見が裏付けているという指摘に留めています。
数値化は、関係を単純化する道具ではなく、関係の多層性を見過ごさないための補助線として使っています。
### 反論8:結局、哲学書やビジネス書を読める知的階層の話では?
この反論には、ある程度の真実があります。「なんちゃって」を自覚的に使いこなす作法は、一定の内省能力と言語化能力を要求します。
しかし、本質的な作法そのものは、誰にでも開かれています。言語化に頼らず、ただ感覚として装飾のない関係を生きている人は、現実に数多く存在します。むしろ、言語化された「なんちゃって関係論」は、自然にできている人には不要で、何かに引っかかっている人にとっての補助線としてこそ価値を持ちます。
知的階層の話というよりも、むしろ、生活の感覚を言語化することで、意識的にそこに戻れるようにする——そのための論考だとご理解いただければと思います。
## 参考文献
- **書籍**:ロビン・ダンバー『友達の数は何人?——ダンバー数とつながりの進化心理学』藤井留美訳(インターシフト, 2011年)[Amazon](https://www.amazon.co.jp/dp/4772695249?tag=digitaro0d-22)
- **書籍**:ロバート・D・パットナム『孤独なボウリング——米国コミュニティの崩壊と再生』柴内康文訳(柏書房, 2006年)[Amazon](https://www.amazon.co.jp/dp/4760129030?tag=digitaro0d-22)
- **書籍**:アリストテレス『ニコマコス倫理学(上)』高田三郎訳(岩波文庫, 1971年)[Amazon](https://www.amazon.co.jp/dp/4003360419?tag=digitaro0d-22)
- **書籍**:エーリッヒ・フロム『愛するということ 新訳版』鈴木晶訳(紀伊國屋書店, 2020年)[Amazon](https://www.amazon.co.jp/dp/4314005580?tag=digitaro0d-22)
- **書籍**:三木清『人生論ノート』(新潮文庫, 1978年改版)[Amazon](https://www.amazon.co.jp/dp/4101019010?tag=digitaro0d-22)
- **書籍**:ゲオルク・ジンメル『社会学(上)——社会化の諸形式についての研究』居安正訳(白水社, 2016年新装版)[Amazon](https://www.amazon.co.jp/s?k=%E3%82%B8%E3%83%B3%E3%83%A1%E3%83%AB+%E7%A4%BE%E4%BC%9A%E5%AD%A6+%E7%99%BD%E6%B0%B4%E7%A4%BE&tag=digitaro0d-22)
- **書籍**:ジグムント・バウマン『リキッド・モダニティ——液状化する社会』森田典正訳(大月書店, 2001年)[Amazon](https://www.amazon.co.jp/dp/4272430572?tag=digitaro0d-22)
- **書籍**:石田光規『孤立の社会学——無縁社会の処方箋』(勁草書房, 2011年)[Amazon](https://www.amazon.co.jp/dp/432665368X?tag=digitaro0d-22)
- **書籍**:土井隆義『つながりを煽られる子どもたち——ネット依存といじめ問題を考える』(岩波ブックレット, 2014年)[Amazon](https://www.amazon.co.jp/s?k=%E3%81%A4%E3%81%AA%E3%81%8C%E3%82%8A%E3%82%92%E7%85%BD%E3%82%89%E3%82%8C%E3%82%8B%E5%AD%90%E3%81%A9%E3%82%82%E3%81%9F%E3%81%A1+%E5%9C%9F%E4%BA%95%E9%9A%86%E7%BE%A9&tag=digitaro0d-22)
- **メディア**:ABEMA TIMES / Yahoo!ニュース『わたしとニュース』「友達をコスパで損切り?『フレフレ現象』とは…止まらない物価高で『自分にお金を使いたい』 識者が分析『必需性の低い交際費は節約の対象』」(2026年)
- **統計**:総務省統計局『家計調査(家計収支編)』[URL](https://www.stat.go.jp/data/kakei/2.html)
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### 著者プロフィール
kentrue(yousystem)
フリーランスクリエイティブエンジニア/現代社会構造分析フリーク/ビジネス寓話創作者/ミュージシャン/思想家/キャバクラ愛好家
麗澤大学不合格、中央学院大学不合格、千葉商科大学不合格、城西国際大学不合格、
日本大学農獣医学部食品経済学科不合格、明治大学商学部二部不合格、
日本大学法学部法律学科二部不合格、神奈川大学不合格、法政大学二部不合格、
専修大学石巻短期大学部不合格、千葉経済大学不合格、
日本大学短期大学部合格、日本大学経済学部1年の留年を経て卒業
ハッシュタグ
#フレンドフレーション #なんちゃって友達 #友情論 #人間関係 #自立 #ダンバー数 #俺教 #アリストテレス
記事情報
公開日
2026-04-18 23:29:12
最終更新
2026-04-18 23:29:15