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5000万円の外車と毎年同じ服——顕示的消費の民主化が暴いた「見せる自分」と「生きる自分」の断裂
## はじめに
2026年3月18日、あるインフルエンサーが法廷に立ちました。
宮崎麗果被告。コスメブランドの経営者にして、元EXILEメンバーの妻。Instagramでは高級外車やハイブランドのバッグを頻繁に披露し、「実業家ワーママ」として多くのフォロワーの憧れを集めていた人物です。起訴内容は、法人税と消費税の脱税、その額およそ1億5700万円。初公判で彼女は「間違いありません」と認めました。
5000万円超の外車を見せびらかすために、1億5000万円を脱税する。
この一文を読んだとき、多くの人が感じたのは怒りよりも、ある種の困惑だったのではないでしょうか。「なぜそこまでして見せたかったのか」「そして当人は、果たして気分が良かったのだろうか」と。
この問いは、実は100年以上前に一人の経済学者が提起したものと本質的に同じです。ソースタイン・ヴェブレンは1899年に出版した『有閑階級の理論』の中で、「顕示的消費(Conspicuous Consumption)」という概念を提唱しました。人は物の使用価値のために消費するのではなく、自分の社会的地位を周囲に見せつけるために消費する——という、耳に痛い指摘です。
そしてこの指摘は、SNS時代において想像もできなかったほどの規模で現実化しています。
本論考では、ヴェブレンの古典的な洞察を起点に、現代日本社会で起きている「顕示的消費の民主化」とでも呼ぶべき現象を分析します。それは単にインフルエンサーの脱税事件という個別のスキャンダルにとどまらず、SNSを通じて全国民的に広がった「見せる自分」の強迫と、その裏側で深まる格差・貧困の構造、そして自己責任論の罠を浮き彫りにするものです。
最後に、この構造から自由になるための、ささやかだけれど確かな道筋を考えてみたいと思います。
※ 本論考における被告の心理や動機、資金繰りに関する記述は、公開された報道情報と社会構造の分析に基づく筆者の考察であり、確定した事実を主張するものではありません。
## 第1章:ヴェブレンが見た「見せびらかし」の本質——顕示的消費とは何か
### 100年前の診断、恐ろしいほどの的中
ソースタイン・ヴェブレンは、19世紀末のアメリカで「有閑階級」——つまり、働かずに暮らせるほどの富を持つ人々——の行動を観察し、ある法則を見出しました。
彼らは単に良い暮らしをしたいから高価なものを買うのではない。「自分はこれだけの下層労働を免除された身分である」ということを、周囲に見せつけるために消費している。そして、その見せつけ行為こそが、彼らの社会的地位を確認し、維持するための不可欠な手段なのだ、と。
ヴェブレンはこれを「顕示的消費」と名づけました。さらに彼は「顕示的閑暇(Conspicuous Leisure)」——つまり「自分がいかに暇であるか」を見せつけること——も同様の機能を持つと指摘しています。
重要なのは、この行動が本人にとって「楽しい」とか「幸せだ」という主観的満足とは本質的に関係がないという点です。ヴェブレンの分析によれば、顕示的消費による満足感は徹底的に「相対的」なものです。周りより優位に立っている瞬間は強烈な万能感が得られますが、その快楽には耐性がつく。常に「より高価なもの」「より新しいもの」を提示し続けなければ、自分のステータスを維持できないという強迫観念に変わっていきます。
これは現代の神経科学の知見とも一致します。他者との比較において優位に立ったときに分泌されるドーパミンは、反復によって効果が薄れていく。同じ刺激では同じ快楽が得られなくなる。いわば「承認のラットレース」です。
### 「見せかけ」のコストは常に増大する
ヴェブレンが鋭かったのは、この消費行動が「金銭的裏付け」を必要とするにもかかわらず、その見せかけのコストが際限なく増大していくメカニズムを見抜いていた点です。
ある水準のセレブ生活を見せてしまえば、次はそれを上回らなければならない。同じレベルの投稿を続けても、フォロワーは飽きる。アルゴリズムはより刺激的なコンテンツを要求する。そうして「見せる」ためのコストは、実際の経済力を超えて膨張していく。
宮崎麗果被告の事件は、まさにこの構造が現実に崩壊した瞬間だったと考えられます。SNSという「24時間営業の比較会場」において、常にセレブ像を演じ続けるという圧力が、脱税という綱渡りの一因となった可能性は否定できません。
## 第2章:SNSが引き起こした顕示的消費の「民主化」——誰もが参加者になった時代
### 有閑階級は解体され、全員がプレイヤーになった
ヴェブレンの時代、顕示的消費は文字通り「有閑階級」の専売特許でした。そもそも高価なものを買える人だけが、見せびらかすことができた。しかしSNSの登場は、この前提を根本から覆しました。
2024年時点で、日本のSNS利用者数は1億人を超えています。総務省の「情報通信メディアの利用時間と情報行動に関する調査」によれば、10代から30代のSNS利用率は90%以上、Instagramの全世代利用率は52.6%に達しています。
これが意味することは明確です。かつては一部の富裕層だけが行っていた「見せびらかし」の場が、スマートフォンとSNSアカウントさえあれば誰でも参加できる「民主的な競技場」に変貌したのです。
しかし、この「民主化」には深刻な副作用がありました。
### 「結果」だけが切り取られる世界
SNS上のコンテンツは、プロセスではなく結果を見せます。高級レストランの食事は映りますが、その食事のために何を犠牲にしたかは映りません。ブランドバッグの写真はフィードに流れますが、そのローンの支払いに苦しむ深夜の不安は映りません。
これは「ハロー効果」の大規模な社会実験と言えます。視聴者は、成功者の一面だけを見て「この人たちの真似をすれば、自分もその階層に行ける」という錯覚を起こしやすくなる。特に「ワーママとして奔走しながらもキラキラ輝く」という物語は、現代的な「理想の生存戦略」として非常に強力なフックでした。
### ボードリヤールの予言——記号としての消費
フランスの社会学者ジャン・ボードリヤールは、1970年の著書『消費社会の神話と構造』で、ヴェブレンの議論をさらに先に進めました。ボードリヤールによれば、現代の消費社会において人々が買っているのは「モノ」ではなく「記号(シーニュ)」です。
ブランドバッグの革の品質や縫製の精度に価値があるのではなく、「このブランドを持っている自分」という記号に価値がある。そして、その記号は他の記号との差異——つまり「持っていない人」との違い——によってのみ成立する。
この分析をSNS時代に適用すると、恐ろしい構図が浮かび上がります。Instagram上の投稿はすべて「記号」です。高級車も、高級レストランも、子供の習い事も、すべてが「この生活水準にいる私」という記号として機能している。そして、その記号は「いいね」の数というメタ記号によって価値が測定される。
つまりSNS上では、消費の記号がさらに記号化されるという、ボードリヤールですら想像しなかったかもしれない「記号のインフレーション」が起きているのです。
### インフルエンサー経済の構造的矛盾
ここで重要なのは、現代のインフルエンサー経済が、ヴェブレンの理論に対してある意味で「逆転」を起こしているという点です。
ヴェブレンの時代、顕示的消費は「金銭的裏付け」があるからこそ効力を持ちました。実際に富んでいるから高価なものを買え、それを見せることで地位を証明できた。しかし現代のインフルエンサー経済では、「消費を見せること自体が収益を生む」という構造が成立しています。
宮崎麗果被告の事業は、まさにこの構造の上に成り立っていました。Instagramに美容関連商品のURLを投稿し、フォロワーがそのリンクから商品を購入すれば、アフィリエイト報酬として企業から対価を受け取る。つまり、「消費しているように見せる」こと自体が商売だったのです。
しかしここに構造的な矛盾があります。「消費を見せて稼ぐ」ためには、常に新しい消費を見せ続けなければならない。しかし、見せるべき消費のレベルは際限なく上がっていく。そして、実際の収益がその消費を支えきれなくなったとき、その差額をどう埋めるか。
彼女の場合、その答えは脱税でした。取引先に虚偽の領収書を作成させ、知人男性に「納税額を減らしたい」と相談し、別会社の役員に計1180万円を支払って協力を得る。公開情報からは実際の資金繰りの詳細は不明ですが、「見せかけの原資」が限界に近づいていた可能性は十分に考えられます。これは個人の犯罪であると同時に、インフルエンサー経済という構造そのものが孕む脆弱性を示唆する事例です。
## 第3章:もう一つの消費——貧困を隠すために「見せる」人々
### 『東京貧困女子。』が描いた世界
華やかなインフルエンサーの脱税事件と対極にあるのが、中村淳彦氏のノンフィクション『東京貧困女子。——彼女たちはなぜ躓いたのか』が描く世界です。
この本に登場する女性たちは、一見「普通」に見えます。スーツを着て出勤し、化粧をして街を歩く。しかし水面下では、奨学金の返済に追われ、ダブルワーク、トリプルワークをこなし、それでも家賃が払えず、最後の手段として風俗に流れていく。
ここで注目すべきは、彼女たちもまた「顕示的消費」の構造の中にいるという点です。ただし、その方向が正反対なのです。
インフルエンサーが「自分はこれだけ豊かである」ことを見せるのに対し、貧困の中にいる人々は「自分は普通である」ことを見せようとする。まともな人間に見られるために、無理をしてそれなりの服を着、それなりの持ち物を揃え、それなりの生活をしているふりをする。
これは「顕示的消費」の暗い双子とでも呼ぶべきものです。見せびらかすための消費ではなく、排除されないための消費。「自分は貧しくない」という記号を纏うための、自衛的な消費です。
### 二つの世界が同じ街に重なっている
宮崎麗果被告が5000万円超の外車をInstagramに投稿していたまさに同じ時期に、東京の別のどこかでは、家賃を払うために夜の仕事をしている女性が、昼間のオフィスで「普通の会社員」の記号を必死に纏っていたはずです。
この二つの世界は、物理的には同じ東京という街に存在しています。しかし、メディアやSNS上では「非現実的なキラキラ」か「絶望的な困窮」の両極端だけが可視化され、その間にある膨大な「普通の生活」は風景として消えていく。
山田昌弘氏は著書『新型格差社会』の中で、現代日本の格差が家族、教育、仕事、地域、そして消費という五つの領域にわたって深刻化していることを分析しています。特に注目すべきは、内閣府の調査データが示す二極化の傾向です。夫婦と子どもからなる世帯について見ると、500万円未満の層の割合が大幅に増加する一方で、800万円以上の世帯も増えている。つまり「中間」が薄くなっているのです。
しかし、この二極化はSNSという増幅装置によって、実態以上に鮮烈に見えてしまう。一方にはインフルエンサーの華やかな投稿、他方にはニュースで報じられる貧困の実態。その間にある、年収400万円で地道に暮らしている何千万人もの人々の姿は、アルゴリズムに選ばれることもなく、話題になることもない。
### 「可視化される富」と「不可視化される貧困」
ここには構造的な非対称性があります。
富は「見せる」ことがビジネスになります。SNSにおいて富を見せることはフォロワーを増やし、広告収入を生み、さらなる富を呼ぶ。つまり、富の可視化には経済的インセンティブがある。
一方、貧困は「隠す」ことが生存戦略になります。貧しさを見せれば社会的に排除され、仕事を失い、人間関係が壊れる。つまり、貧困の不可視化には切実な生存の理由がある。
結果として、SNS上の世界は実態以上に「富んでいる」ように見え、その対比として報道される貧困は実態以上に「悲惨」に見える。中間は消えていく。この知覚の歪みが、社会全体の分断をさらに深めているのです。
## 第4章:自己責任という名の分断装置
### 「頑張れば成功する」の暴力
この二極化をさらに加速させている装置があります。それが「自己責任論」です。
「成功した人は努力したから成功した。失敗した人は努力が足りなかったから失敗した。」——この単純な図式は、一見すると公平で、合理的で、反論しにくい。しかし、この論理は社会構造が個人の運命に与える影響を完全に無視しています。
吉崎祥司氏は著書『「自己責任論」をのりこえる——連帯と「社会的責任」の哲学』の中で、自己責任論が新自由主義的な政策と結びついて格差を拡大し、社会的連帯を分断していく過程を分析しています。自己責任論は、成功者には「自分の才覚のおかげだ」という過信を与え、困窮者には「自分の努力が足りないのだ」という自罰を強いる。
これはヴェブレンが指摘した顕示的消費の構造と、実は表裏一体の関係にあります。
顕示的消費は「自分がいかに成功しているか」を可視化する行為です。そして自己責任論は、その成功を「本人の能力と努力の結果」として正当化する論理装置です。この二つが組み合わさることで、「成功を見せびらかすのは正当な権利であり、見せびらかせない人間は努力が足りない」という、途方もなく残酷な世界観が完成します。
### インフルエンサーの自転車操業が映し出すもの
宮崎麗果被告の事件に話を戻しましょう。
彼女は自己責任論の「成功者」側でした。自分のブランドを立ち上げ、事業を成功させ、元EXILEメンバーと結婚し、4人の子を育てながら華やかな生活を送る。まさに「自分の才覚で人生を切り拓いた」ストーリーの体現者として、多くのフォロワーに支持されていた。
しかしその裏側では、虚偽の領収書を作成させ、知人に「納税額を減らしたい」と泣きつき、協力者に1180万円を支払うという、およそ「自立した成功者」とはかけ離れた姿がありました。
ここで注目すべきは、彼女を追いかけていたフォロワーたちの心理です。成功の秘訣として「努力」「行動力」「自分を信じること」といった自己責任論的な美辞麗句が語られるとき、それを受け取った側は、自分が成功できないのは自分の責任だと思い込む。そして、その罪悪感がさらなる消費——セミナーへの参加、情報商材の購入、コスメの定期購入——を生み出す。
つまり、自己責任論は消費を駆動するエンジンでもあったのです。
### 認知的不協和と「界隈」のサンクコスト
一度セレブインフルエンサーの世界観を信じ、商品を買い、オンラインサロンに入り、生活の一部として取り込んでしまった人々にとって、「自分の憧れが偽物だった」と認めることは、自分自身の判断を否定することを意味します。
心理学でいう「認知的不協和」です。人は、自分がすでに投じた時間・お金・感情(サンクコスト)と矛盾する情報に直面したとき、情報の方を否定しようとする傾向があります。「彼女はハメられたのだ」「マスコミが悪意を持って報じている」「脱税くらい誰でもやっている」——こうした擁護の声がSNS上で一定数見られるのは、この心理メカニズムによるものです。
そして、この認知的不協和こそが、インフルエンサーのピラミッド構造を維持する接着剤になっている。教祖が失墜しても、信者はすぐには離れない。なぜなら、離れることは「自分が騙されていた」と認めることだからです。
## 第5章:記号を纏わない自由——もう一つの生き方
### 「みすぼらしいデブ」という最強の迷彩
ここで、一つの対照的な生き方を考えてみましょう。
年収1000万円以上あるのに、服屋に行くのが気後れして毎年同じ服を着ている人がいるとします。ブランド品には興味がなく、はたから見れば「みすぼらしい」かもしれない。しかし、好きなときにキャバクラに行き、気の合う人との対話を楽しみ、自分の専門性で確実に稼ぐ。
ヴェブレンの理論的枠組みで見れば、この人物は「顕示的消費の放棄者」です。そして、だからこそ自由なのです。
顕示的消費とは、結局のところ「他者の目」への従属です。「どう見られるか」を基準に消費を決定することは、自分の行動の主導権を他者に明け渡すことに等しい。その呪縛から解放されるためには、「どう見られてもいい」という、一見単純だけれど実行は途方もなく難しい決断が必要です。
### 消費の矛先が「記号」から「実体」へ
興味深いのは、顕示的消費から距離を置いた人の消費が消えるわけではないという点です。消費の矛先が変わるだけです。
ブランド品という「記号」ではなく、対話や経験という「実体」に向かう。形に残るモノではなく、形に残らないが濃密な時間に価値を置く。これは経済学的に言えば、「地位財(positional goods)」から「非地位財(non-positional goods)」への消費のシフトです。
ロバート・フランクらの研究が示すように、地位財——つまり他者との比較によって価値が決まるもの——への消費は、幸福度との相関が弱い。一方、非地位財——健康、余暇、親密な人間関係、知的好奇心の充足——への消費は、幸福度との相関が強い。
つまり、顕示的消費から降りることは、単なる禁欲ではなく、より幸福な消費へのポートフォリオ・リバランスなのです。
### 「降りる」ために必要なもの
しかし、「顕示的消費から降りる」ことは、言うほど簡単ではありません。なぜなら、私たちの社会は全方位的に「見せること」を奨励しているからです。
SNSの「いいね」、企業の「ブランディング」、就職活動の「自己PR」、婚活の「スペック」——現代社会は、あらゆる場面で「自分を見せる」ことを要求します。この環境の中で「見せない」という選択をすることは、ある種の社会的リスクを伴います。
それでも「降りる」ことが可能になる条件があるとすれば、それは「見せかけなくても揺るがない何か」を自分の中に持っていることでしょう。
それは専門的なスキルかもしれない。長年積み上げてきた信頼関係かもしれない。あるいは、自分が何に価値を感じるかについての揺るぎない自覚かもしれない。ヴェブレン的に言えば、「装飾でマウントを取る必要がない実体」を持っているということです。
毎年同じ服を着ていても年収1000万円を稼げるフリーランスエンジニアは、「身なり相応の記号」という呪縛から自由でいられます。なぜなら、記号がなくても実体で証明できるから。見せかけなくても、存在の価値が揺るがないから。
これは特権かもしれません。誰もがすぐに手に入れられるものではないかもしれません。しかし、少なくとも「目指すべき方向」として意識することには意味があります。記号を増やすのではなく、実体を積み上げる。見せ方を磨くのではなく、中身を磨く。これは古臭い教訓に聞こえるかもしれませんが、SNS時代においてはむしろラディカルな反抗です。
## 第6章:虚飾の再生産は止められるか——展望と問い
### メディアリテラシーの限界
「SNSに騙されないようにメディアリテラシーを高めよう」——この処方箋は、間違いではありませんが、決定的に不十分です。
なぜなら、顕示的消費の構造は、個人のリテラシーの問題ではなく、社会システムの問題だからです。一人ひとりが「あのインフルエンサーは嘘をついているかもしれない」と疑うことはできても、「消費を見せることが収益を生む」というビジネスモデルそのものは、個人の覚醒では変えられない。
加納寛子氏の研究が示すように、承認欲求の高い人はSNSを頻繁に利用し、SNSの利用がさらに承認欲求を刺激するという循環構造が存在します。この循環は個人の意志では断ち切りにくい。なぜなら、それはプラットフォームのビジネスモデルそのものに組み込まれているからです。
### 構造を変えるために
より根本的な対応を考えるならば、以下のような方向性が必要かもしれません。
第一に、インフルエンサーマーケティングの透明性の強化です。ステルスマーケティング規制は進んでいますが、「生活全体がマーケティングである」タイプのインフルエンサーに対しては、既存の規制では不十分です。
第二に、「成功」の多様なモデルの可視化です。SNS上で可視化される「成功」が、消費量と見た目の華やかさに偏っている現状を変えるには、別の形の「豊かさ」——知的な充足、人間関係の深さ、社会への貢献——が同じくらい魅力的に見える場が必要です。
第三に、そしておそらく最も重要なのは、自己責任論の相対化です。「成功も失敗も本人次第」という物語が支配的である限り、顕示的消費の圧力は弱まりません。構造的な格差の存在を認め、「頑張っても報われないことがある」「報われている人は運にも恵まれている」という当たり前の事実を、当たり前のこととして共有すること。
これは「努力を否定する」ことではありません。「努力だけでは説明できない現実がある」ことを認めることです。この認識があってはじめて、「自分が持っていないものを見せびらかす人」に対しても、「自分が持っていることを隠さなければならない人」に対しても、より誠実な眼差しを向けることができるようになるはずです。
### ヴェブレンの遺言、ボードリヤールの予言、そして私たちの選択
ヴェブレンは100年以上前に、人間の消費行動の核心にある虚栄を暴きました。ボードリヤールは50年前に、消費が「記号」のゲームへと変質していくことを予見しました。そして今、SNSという装置は、その記号のゲームをかつてない規模で、かつてないスピードで、かつてない人数に対して展開しています。
しかし、ゲームのルールが見えれば、参加しないという選択も可能になります。
「1億5000万円を脱税してまで、5000万円の車を自慢したかったのか?」
この問いは、脱税をした彼女だけに向けられるべきものではありません。程度の差こそあれ、私たちの多くが日常的に行っている「見せるための消費」——インスタ映えのために食べたくもないパンケーキを注文し、背伸びして買ったバッグを何気なく写真に映り込ませ、充実した週末を演出するためにコーヒーの写真を加工する——に対しても、同じ問いが静かに突きつけられています。
その「見せる」行為は、あなたを幸せにしていますか?
## おわりに
『東京貧困女子。』に描かれた切実な世界と、脱税インフルエンサーの虚飾の世界。この二つは、同じ構造の表と裏です。どちらも「他者の目」という呪縛に囚われた結果として生まれた風景です。
一方は「もっと豊かに見せなければ」と自転車を漕ぎ続け、法を犯し、ついには法廷に立った。他方は「せめて普通に見せなければ」と心身を削り、夜の街に沈んでいった。どちらも、他者からの視線——世間体という日本社会に深く根を張った呪縛——に縛られた結果です。
しかし、その呪縛の外側には、別の景色が広がっています。
毎年同じ服を着て、はたから見ればみすぼらしいかもしれないけれど、自分の専門性で確実に稼ぎ、好きなときに好きな場所で人との対話を楽しむ。記号を纏わないから、誰にも何も証明する必要がない。見せかけのコストがゼロだから、そのぶんを自分の幸福に直接投資できる。
これは別に超人的な精神力の話ではありません。ただ、「自分が何に本当に価値を感じるか」を知っていて、そこに正直に生きているだけの話です。
残酷な真実を残酷に届ける必要はありません。ただ、こう言いたいのです。
あなたが今見せようとしているもの、それは本当にあなた自身ですか。それとも、誰かに見せるために用意した、あなたの「記号」ですか。
もしその記号を取り去ったとき、残るものがあなた自身の核だとしたら——その核を磨くことに時間を使ったほうが、おそらくはずっと幸福です。
5000万円の外車は法廷の証拠写真になりました。その事実は何よりも忠実に現代社会を映し出しているとは言えないでしょうか。
## 予想される反論と、それに対する見解
### 反論1:「SNSのセレブ文化は単なるエンタメだ。深刻に捉えすぎでは?」
確かに、多くの人はSNSの投稿を娯楽として消費しており、真に受けて人生を変えるような行動を取る人は少数かもしれません。しかし、その「少数」が統計的に無視できない規模であることが問題です。情報商材やオンラインサロンの市場規模は年々拡大しており、それらの多くがインフルエンサーの「成功の見せかけ」を入口としています。「多くの人は騙されていない」ことは、「一部の人が深刻な被害を受けている」ことを免罪しません。
### 反論2:「格差は資本主義の必然であり、二極化というのは誇張ではないか」
格差そのものは確かに資本主義経済に内在するものです。しかし、問題はその格差の「質」が変わっていることです。かつての格差は主に「稼ぎの違い」でしたが、現代の格差は「情報へのアクセス」「社会関係資本」「心理的余裕」といった多次元的なものに広がっています。そして、これらの格差はSNSによって増幅され、固定化される傾向にあります。「二極化」は統計的な厳密さでは議論の余地がありますが、人々が感じる「分断感」は確実に深まっていると考えます。
### 反論3:「自己責任論にも一定の合理性がある。努力を否定すべきではない」
まったくその通りです。私は努力を否定していません。否定しているのは、「努力だけで結果が決まる」という信仰です。同じ努力をしても、生まれた家庭の経済状況、地域、時代、健康状態、人間関係といった「本人にはどうしようもない要因」によって結果は大きく異なります。自己責任論の問題は、この「どうしようもない要因」の影響力を過小評価し、成功者に不当な自信を、失敗者に不当な自責を与えることにあります。
### 反論4:「あなたも結局、論考を書いて見せているのでは?」
鋭い指摘です。その通り、この論考を書いて公開すること自体が、ある種の「知的顕示」であることは否定しません。ただ、顕示的消費の問題は「見せること」そのものにあるのではなく、「見せること」が自己目的化し、実体を伴わなくなったときに生じます。私がこの論考で伝えたいのは、見せることの否定ではなく、見せることの優先順位を問い直すことです。
### 反論5:「年収1000万円で毎年同じ服を着ていられるのは特権だ。余裕がない人にとっては参考にならない」
これは正当な批判です。「記号から降りる」ことが可能なのは、記号がなくても社会的に排除されないだけの経済的・専門的基盤がある場合に限られるかもしれません。貧困の中で「普通を装う」消費をせざるを得ない人に「記号から降りろ」と言うのは暴力です。私がここで述べたいのは、「降りられる人は降りたほうが幸せだ」ということであり、「降りられない環境にいる人がまず必要としているのは、安心して降りられるだけのセーフティネットだ」ということです。
### 反論6:「ヴェブレンの理論は100年以上前のものであり、現代には当てはまらないのでは」
ヴェブレンの理論が100年以上前のものであることは事実です。しかし、「人間は社会的地位を見せつけるために消費する」という基本的な洞察は、むしろSNS時代に入ってからさらに強化されています。理論の細部は時代遅れかもしれませんが、その核心——消費の動機は使用価値ではなく地位の誇示にある——は、Instagramの投稿を一つ見れば、いまだに痛いほど有効であることがわかるはずです。
### 反論7:「結局、どうすればいいのか具体的な提案がない」
社会構造の問題に対して「こうすれば解決する」という万能の処方箋を提示しないのは、誠実さの問題です。安易な解決策を提示することは、問題の複雑さを矮小化することにほかなりません。ただし、個人のレベルでは一つだけ明確に言えることがあります。「次にSNSを開いたとき、自分が見ているものが記号であることを思い出してください。そして、自分が投稿しようとしているものが、自分自身なのか記号なのかを、一秒だけ考えてみてください。」この一秒の問いが、顕示的消費のラットレースから降りるための最初のステップです。
## 参考文献
- ソースタイン・ヴェブレン(村井章子訳)『有閑階級の理論[新版]』(ちくま学芸文庫, 2015年)[Amazon](https://www.amazon.co.jp/dp/4480097503?tag=digitaro0d-22)
- ジャン・ボードリヤール(今村仁司・塚原史訳)『消費社会の神話と構造 新装版』(紀伊國屋書店, 2015年)[Amazon](https://www.amazon.co.jp/dp/4314011165?tag=digitaro0d-22)
- 中村淳彦『東京貧困女子。——彼女たちはなぜ躓いたのか』(東洋経済新報社, 2019年)[Amazon](https://www.amazon.co.jp/dp/4492261133?tag=digitaro0d-22)
- 山田昌弘『新型格差社会』(朝日新書, 2021年)[Amazon](https://www.amazon.co.jp/dp/4022951206?tag=digitaro0d-22)
- 山田昌弘『希望格差社会——「負け組」の絶望感が日本を引き裂く』(筑摩書房, 2004年)[Amazon](https://www.amazon.co.jp/dp/4480863605?tag=digitaro0d-22)
- 吉崎祥司『「自己責任論」をのりこえる——連帯と「社会的責任」の哲学』(学習の友社, 2014年)[Amazon](https://www.amazon.co.jp/dp/4761706937?tag=digitaro0d-22)
- ロバート・H・フランク(金森重樹監訳)『幸せとお金の経済学』(フォレスト出版, 2017年)[Amazon](https://www.amazon.co.jp/dp/4894517779?tag=digitaro0d-22)
- 加納寛子「承認欲求とソーシャルメディア使用傾向の関連性」(『情報教育』第1巻, 2019年)[J-STAGE](https://www.jstage.jst.go.jp/article/rrie/1/0/1_18/_article/-char/ja/)
- 総務省「令和6年版 情報通信白書」SNS利用動向(2024年)[総務省](https://www.soumu.go.jp/johotsusintokei/whitepaper/ja/r06/html/nd217100.html)
- 内閣府「日本経済2020-2021 第3節 格差の動向と課題」[内閣府](https://www5.cao.go.jp/keizai3/2021/0207nk/n21_3_3.html)
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### 著者プロフィール
kentrue(yousystem)
フリーランスクリエイティブエンジニア/ビジネス寓話創作者/ミュージシャン/思想家/キャバクラ愛好家
麗澤大学不合格、中央学院大学不合格、千葉商科大学不合格、城西国際大学不合格、
日本大学農獣医学部食品経済学科不合格、明治大学商学部二部不合格、
日本大学法学部法律学科二部不合格、神奈川大学不合格、法政大学二部不合格、
専修大学石巻短期大学部不合格、千葉経済大学不合格、
日本大学短期大学部合格、日本大学経済学部1年の留年を経て卒業
ハッシュタグ
#顕示的消費 #ヴェブレン #SNS #インフルエンサー #格差社会 #自己責任論 #承認欲求 #ボードリヤール #東京貧困女子
記事情報
公開日
2026-03-20 00:54:19
最終更新
2026-03-20 00:54:33