はじめに
先日、知り合いの女性と深夜まで飲んでいました。つまみに近所のまいばすけっとでおしんこを買ってきたのですが、二次会並みに飲んだあとの胃袋には少し多すぎたようで、結構な量が余ってしまいました。
すると彼女が、さっとサランラップをかけて冷蔵庫にしまってくれました。
それから二日ほどして、その残りを食べようとして冷蔵庫を開けたとき、私は少し考え込んでしまいました。ラップが、ものすごく丁寧だったのです。器のフチにシワひとつなく、ピンと張ってありました。太鼓の皮のように、指ではじけば音がしそうな張り方でした。
彼女は日頃から「私は料理できないし、してない」と言っています。私はそれを額面どおりに受け取っていました。
でも、このラップを見て「嘘だな」と思いました。こんなラップをかけられる人が、料理をしていないはずがありません。
思い返せば、前に鍋をしたときもそうでした。シイタケや豆腐をササッと切ってくれたのですが、具の大きさがきれいに揃っていて驚いた覚えがあります。私などはラップは適当、具の大きさは知ったことではない人間ですから、なおさら目に付きました。
ただ、ここが大事なところなのですが、私は彼女が見栄で謙遜しているとも、嘘をついているとも思いません。たぶん彼女は本気で「自分は料理ができない」と思っているのです。
この論考で考えたいのは、この「本気で思っている」の中身です。結論を先に書いておきます。
「できない」という自己申告は、能力の報告ではなく、合格ラインの報告です。 そして、その合格ラインは本人が選んだものではなく、多くの場合、育った場所で知らないうちに渡されたものです。
おしんこ一パックから始まる話ですが、これは料理だけの話ではありません。仕事でも、資格でも、子育てでも、「自分はまだまだです」と言う人の多くが、同じ構造の中にいると私は考えています。
第1章:手つきは自己申告より正直である
まず、ラップの話をもう少しだけ続けさせてください。
ラップをピンと張る作業は、誰かに褒められるためのものではありません。深夜、酔っていて、相手は飲み友達で、中身は数百円のおしんこです。見栄を張る理由がどこにもありません。
だからこそ、そこに出てくるのはその人の「標準」です。気合いを入れたときの最高値ではなく、何も考えずにやったときの平均値です。具の大きさを揃えるのも同じです。揃えようと決意して揃えたのではなく、揃わないと気持ちが悪いから揃ってしまうのでしょう。
ここで一つ、はっきりさせておきたいことがあります。ラップが上手だからといって、料理全般が上手だとは限りません。煮物の味付けも上手かどうかは、ラップからは分かりません。ただ、少なくとも「台所での作業に、自分なりの品質基準を持っている人だ」ということは分かります。そして、その品質基準を持っている人が「私は料理をしていない」と言うとき、そこで起きているのは能力の不足ではなく、もっと別のことです。
人は、自分について語るときより、何気なく手を動かしているときのほうが正直です。自己申告は本人の物差しを通して出てきますが、手つきは物差しを通らずに出てくるからです。
第2章:「できない」は能力の報告ではなく、合格ラインの報告である
では、彼女の頭の中で何が起きているのでしょうか。
私の見立てはこうです。彼女にとって「料理ができる」とは、出汁を引き、献立を組み立て、何品かを同時に仕上げて食卓に並べることなのだと思います。その水準に届いていないから、「私は料理ができない」と言うのです。言わば、合格ラインがミシュランの三つ星あたりに置いてあります。
一方の私は、何を作っても「あれ?天才シェフここにいたわ」です。肉を焼いてタレをかけただけで、自分の才能が怖くなります。私の合格ラインは、床に置いてあります。
ここで面白いのは、二人の「できる・できない」の差が、能力の差よりも合格ラインの差で決まっていることです。手先の丁寧さで比べれば、彼女のほうがはるかに上です。それなのに、自己申告では「料理ができない人」と「天才シェフ」になっています。順位が完全にひっくり返っているわけです。
心理学には、この現象を考えるための手がかりがいくつかあります。
一つは、1978年に心理学者のポーリン・クランスとスザンヌ・アイムスが報告した「インポスター現象」です。二人は、学業でも仕事でも高い成果を上げている女性たちが、それでも「自分は本当は大したことがない。周りをだましているだけだ」と思い込み続けている様子を記録しました。後の研究で、これは女性に限らず男性にも同じくらい見られることが分かっています。成果を出している人ほど、自分の成果を自分のものとして受け取れないことがある、という指摘です。
もっとも、インポスター現象の中心にあるのは「いつか化けの皮がはがれる」という不安で、彼女のように淡々と「できない」と言うのとは温度が違います。共通しているのは、実際の出来と自己評価のあいだに大きな食い違いがあり、その食い違いが本人の側からは見えない、という点です。では、なぜ見えないのでしょうか。
手がかりのもう一つは、自分を「こうあるべき」という理想と比べてしまう心の動きです。心理学者のトーリー・ヒギンズは1987年に、人は「実際の自分」と「こうありたい自分」「こうあるべき自分」とのずれを感じたとき、落ち込みや不安を覚えると論じました(自己不一致理論)。ここで大事なのは、ずれの大きさを決めるのが実際の自分の出来だけではないことです。理想の側をどこに置くかで、同じ出来でも、ずれは小さくも大きくもなります。
彼女の場合、理想の側がとても高いところにあります。だから、手つきがどれだけ丁寧でも、ずれは埋まりません。埋まらない以上、本人の実感としては「できない」のです。ですから、それは嘘ではありません。物差しの目盛りを正直に読み上げているだけです。
第3章:物差しは、育った家で渡される
では、その高い合格ラインは、どこから来たのでしょうか。
本人に聞いたわけではないので、ここからは推測です。ただ、多くの人に当てはまる推測だと思います。
人は、子どものころ毎日目にしていたものを、無意識のうちに「普通」として受け取ります。毎食きちんとした料理が並ぶ家で育った人にとっては、それが普通です。特別なことだとは思っていません。逆に、食べられれば十分という家で育った人にとっては、カップ麺にネギを散らしただけで立派な料理です。
社会学者のピエール・ブルデューは、こうして育った環境の中で身につく「ものの感じ方・判断の仕方の型」を「ハビトゥス」と呼びました。彼の主著『ディスタンクシオン』は、何を美しいと感じ、何を上品と感じるかという趣味の判断が、実は生まれ育った階層や家庭の中で形づくられていることを、膨大な調査で示した本です。ブルデュー自身は主に階級と趣味の話をしていますが、「何をもって『ちゃんとしている』とするか」という物差しが、本人の意志より先に、育った場所から渡されるという見方は、台所の話にもそのまま当てはまると私は考えています。
実は、私の母がこの型の人です。私から見れば十分すぎるほど家のことをきちんとこなしてきた人なのに、本人は「たいしたことはしていない」と言います。母の中では、あれくらいは「やって当たり前」の範囲に入っているのです。彼女の話を聞いたとき、私は母の顔を思い浮かべました。
ここで強調しておきたいのは、高い合格ラインそのものは悪いものではない、ということです。その物差しがあったからこそ、彼女はラップをピンと張れるし、具の大きさを揃えられるのです。高い基準は、本人の美意識であり、技術の土台でもあります。もしかすると、その基準で生きてきたこと自体が、彼女の成功体験であり、人柄の芯になっているのかもしれません。
問題は、物差しが高いことではありません。物差しが一本しかないことです。
第4章:料理だけの話ではない
ここまで料理の話をしてきましたが、同じことはあらゆる場面で起きています。
たとえばプログラミングです。ある人は「書いたプログラムが動いたら、プログラミングができる」と考えます。別の人は「設計、読みやすさ、保守のしやすさ、テスト、セキュリティまで満たして、初めてプログラミングができると言える」と考えます。後者の人は、実際には前者よりはるかに腕が立つのに、自分のことを「まだまだできない」と評価しているかもしれません。
英語もそうです。海外旅行で困らない程度に話せる人が「英語はできません」と言うのは、珍しくありません。その人の合格ラインが「ネイティブと同じように議論できること」に置いてあるからです。
この傾向は、日本ではとくに強く出るようです。心理学者のスティーヴン・ハイネ、北山忍らは1999年の論文で、「人は自分を肯定的に見たがるものだ」という欧米の心理学の前提を日本の研究結果と照らし合わせ、日本ではむしろ自分の足りない点に目を向ける傾向のほうが目立つ、と論じました。日本の文化では、自分の欠点を見つけて直そうとする姿勢そのものが、良いこととされているというのです。
もちろん、これを「日本人はみんな謙虚だ」という話に広げるつもりはありません。ただ、「できます」と言うより「まだまだです」と言うほうが収まりのよい場で長く暮らしていると、合格ラインはじわじわと上がっていきます。誰も下げてくれないからです。
そうして、本当はできる人ほど「できない」と言い、本当はそれほどでもない人が「できる」と言うという奇妙な逆転が、職場にも台所にも起きています。
第5章:減点方式の人の隣に、加点方式の人がいること
では、どうすればよいのでしょうか。
ここで私は、自分の「天才シェフ」ぶりを少しだけ弁護したいと思います。
減点方式で生きている人は、自分の作業を見るとき、まず足りないところを探します。ラップをかけても「これくらいは当たり前」と思い、具を切っても「これくらいは料理のうちに入らない」と思います。どれだけやっても、加点が起きません。その結果、能力は高いのに、毎日が少しずつ苦しくなります。
一方、加点方式の私は、肉を焼いただけで点が入ります。能力は低いのに、毎日が楽しいわけです。客観的には笑い話ですが、ここには一つの知恵が含まれていると私は思っています。
心理学者のクリスティン・ネフは、「セルフ・コンパッション(自分への思いやり)」という考え方を研究してきました。失敗したときや足りないと感じたときに、自分を責めるのではなく、親しい友人にかけるような言葉を自分にかけることです。ネフは、これが自己評価を無理に高く保とうとすることとは別物であり、落ち込みにくさや立ち直りやすさと結びついていることを、研究を通じて論じてきました。そして、自分に優しくしたからといって向上心がなくなるわけではない、とも述べています。
ここで言いたいのは、彼女に「基準を下げなさい」と言うことではありません。そんなことを言われたら、彼女はかえって困るでしょう。高い基準は彼女の美意識であって、手放す必要はありません。
言いたいのは、高い基準を持ち続けることと、低い基準でも満足できることは、両立するということです。
丁寧にやりたい日は丁寧にやればいいのです。でも、毎回そうしなければならないわけではありません。疲れた夜はラップを適当にかけたって、おしんこは翌日ちゃんと食べられます。物差しを一本から二本に増やすだけです。「理想の物差し」と「今日の物差し」です。理想は高いところに置いたまま、今日の分は今日の物差しで合格にしてあげるのです。それだけで、同じ手つきの人生がずいぶん楽になります。
そして、その二本目の物差しは、自分で作るより、隣にいる誰かから借りるほうが早いのだと思います。何を作っても「天才シェフ誕生!」と喜んでいる人間が隣にいると、「え、そんなのでいいの?」と思う瞬間が来ます。呆れながらでもいいのです。呆れた瞬間に、物差しが一本増えています。
私はこれを、凡人の効用と呼んでいます。私は以前から「凡人最強説」という考えを書いてきました。注目や評価を求めて背伸びし続ける人生より、目立たず、小さく、自分の物差しで満足できる人生のほうが、結局は幸福に近いのではないか、という考えです。今回の話は、その考えの台所版です。凡人は、自分が楽に生きられるだけではありません。隣にいる真面目な人の肩の力を、少しだけ抜かせる役にも立つのです。
おわりに
整理しておきます。
「料理できない」と言う人のラップがピンと張っているのは、その人が嘘をついているからではありません。合格ラインがとても高いところにあって、実際の手つきがそこに届いていないと本人が感じているからです。「できない」は能力の報告ではなく、合格ラインの報告です。
その合格ラインは、多くの場合、育った場所で知らないうちに渡されたものです。高い基準そのものは美徳であり、技術の土台です。問題は、物差しが一本しかないことです。
だから必要なのは、基準を下げることではなく、物差しを増やすことです。そして、その二本目の物差しは、隣にいる加点方式の人間から借りられることがあります。
身近に「私なんて全然できなくて」と言う人がいたら、その人の言葉ではなく、手つきを見てみてください。たぶん、言葉よりずっと上手です。そして、もしあなた自身がその「全然できない」と言う側の人なら、一度だけ、自分の手つきを他人のものだと思って眺めてみてください。
ちなみに、彼女がラップしてくれたおしんこは、翌日もしっかりおいしかったです。それを食べながら、私はラップ一枚からここまで考え込んでいました。日常というのは、なかなか侮れません。
予想される反論と、それに対する見解
反論1:単に謙遜しているだけではないのか
日本では謙遜が礼儀なので、「料理できない」も社交辞令にすぎないのではないか、という反論です。
その可能性はあります。ただ、社交辞令なら、相手や場面によって言い方が変わるはずです。私が見てきた範囲では、彼女はどんな場面でも同じことを言います。そして、ラップや包丁の手つきには、謙遜の入り込む余地がありません。言葉と手つきが食い違い続けているなら、それは礼儀というより、本人の物差しの問題だと考えるほうが自然だと私は思います。もっとも、謙遜の習慣が長く続くうちに物差しそのものが上がっていく、という第4章の見方に立てば、二つは別物ではなく、地続きなのかもしれません。
反論2:ラップ一枚と具の切り方だけで、料理ができると言い切るのは乱暴だ
これはそのとおりです。だから本文でも、料理全般が上手だとは言い切っていません。私が言いたいのは「彼女は料理が上手だ」ということではなく、「台所での作業に高い品質基準を持っている人が、自分を『できない』側に分類している」という食い違いのほうです。仮に彼女の煮物の味付けが平凡だったとしても、この食い違いは残ります。
反論3:高い基準を持っているからこそ上達するのであって、加点方式は向上心を奪うのではないか
一番痛い反論だと思います。実際、私の料理の腕は、天才シェフを自称し始めてから一向に上がっていません。
ただ、ここで言っているのは、高い基準を捨てて加点方式に乗り換えることではありません。理想の物差しは残したまま、今日の分を合格にする二本目の物差しを足すことです。ネフらの研究が示しているのも、自分に優しくすることが向上心と両立する、ということでした。一本だけの減点方式は、向上心よりも先に、続ける気力を削っていきます。続かなければ上達もしません。
反論4:他人の物差しに口を出すのは、余計なお世話ではないか
そのとおりで、だから私は彼女に「基準を下げたほうがいい」とは言っていませんし、これからも言うつもりはありません。物差しは本人のものです。私にできるのは、隣で勝手に天才シェフを名乗り続けることだけです。それを見て「そんなのでいいんだ」と思うかどうかは、彼女が決めることです。
反論5:育った環境のせいにするのは決定論的すぎる
育った家だけで物差しが決まるわけではありません。職場、学校、付き合ってきた人たちも、物差しの目盛りを少しずつ書き換えていきます。ブルデューのハビトゥスも、本人の行動を機械的に決めるものではなく、新しい経験の中で少しずつ形を変えていくものとして考えられています。本文で言いたかったのは、「物差しは本人が意識して選んだものではないことが多い」ということです。選んだものではないと気づけば、書き足すこともできるはずです。
参考文献
- Clance, P. R., & Imes, S. A.「The Imposter Phenomenon in High Achieving Women: Dynamics and Therapeutic Intervention」(Psychotherapy: Theory, Research & Practice, 15(3), 241–247, 1978)https://doi.org/10.1037/h0086006
- Higgins, E. T.「Self-Discrepancy: A Theory Relating Self and Affect」(Psychological Review, 94(3), 319–340, 1987)https://doi.org/10.1037/0033-295X.94.3.319
- Heine, S. J., Lehman, D. R., Markus, H. R., & Kitayama, S.「Is There a Universal Need for Positive Self-Regard?」(Psychological Review, 106(4), 766–794, 1999)https://doi.org/10.1037/0033-295X.106.4.766
- 書籍:『ディスタンクシオン──社会的判断力批判 I・II』ピエール・ブルデュー著、石井洋二郎訳(藤原書店, 1990)
- 書籍:『セルフ・コンパッション[新訳版]──有効性が実証された自分に優しくする力』クリスティン・ネフ著、石村郁夫・樫村正美・岸本早苗監訳、浅田仁子訳(金剛出版, 2021)
著者プロフィール
kentrue(yousystem)
フリーランスクリエイティブエンジニア/現代社会構造分析フリーク/ミュージシャン/ビジネス寓話創作者/思想家/キャバクラ愛好家
麗澤大学不合格、中央学院大学不合格、千葉商科大学不合格、城西国際大学不合格、
日本大学農獣医学部食品経済学科不合格、明治大学商学部二部不合格、
日本大学法学部法律学科二部不合格、神奈川大学不合格、法政大学二部不合格、
専修大学石巻短期大学部不合格、千葉経済大学不合格、
日本大学短期大学部合格、日本大学経済学部1年の留年を経て卒業
## はじめに
先日、知り合いの女性と深夜まで飲んでいました。つまみに近所のまいばすけっとでおしんこを買ってきたのですが、二次会並みに飲んだあとの胃袋には少し多すぎたようで、結構な量が余ってしまいました。
すると彼女が、さっとサランラップをかけて冷蔵庫にしまってくれました。
それから二日ほどして、その残りを食べようとして冷蔵庫を開けたとき、私は少し考え込んでしまいました。ラップが、ものすごく丁寧だったのです。器のフチにシワひとつなく、ピンと張ってありました。太鼓の皮のように、指ではじけば音がしそうな張り方でした。
彼女は日頃から「私は料理できないし、してない」と言っています。私はそれを額面どおりに受け取っていました。
でも、このラップを見て「嘘だな」と思いました。こんなラップをかけられる人が、料理をしていないはずがありません。
思い返せば、前に鍋をしたときもそうでした。シイタケや豆腐をササッと切ってくれたのですが、具の大きさがきれいに揃っていて驚いた覚えがあります。私などはラップは適当、具の大きさは知ったことではない人間ですから、なおさら目に付きました。
ただ、ここが大事なところなのですが、私は彼女が見栄で謙遜しているとも、嘘をついているとも思いません。たぶん彼女は本気で「自分は料理ができない」と思っているのです。
この論考で考えたいのは、この「本気で思っている」の中身です。結論を先に書いておきます。
**「できない」という自己申告は、能力の報告ではなく、合格ラインの報告です。** そして、その合格ラインは本人が選んだものではなく、多くの場合、育った場所で知らないうちに渡されたものです。
おしんこ一パックから始まる話ですが、これは料理だけの話ではありません。仕事でも、資格でも、子育てでも、「自分はまだまだです」と言う人の多くが、同じ構造の中にいると私は考えています。
## 第1章:手つきは自己申告より正直である
まず、ラップの話をもう少しだけ続けさせてください。
ラップをピンと張る作業は、誰かに褒められるためのものではありません。深夜、酔っていて、相手は飲み友達で、中身は数百円のおしんこです。見栄を張る理由がどこにもありません。
だからこそ、そこに出てくるのはその人の「標準」です。気合いを入れたときの最高値ではなく、何も考えずにやったときの平均値です。具の大きさを揃えるのも同じです。揃えようと決意して揃えたのではなく、揃わないと気持ちが悪いから揃ってしまうのでしょう。
ここで一つ、はっきりさせておきたいことがあります。ラップが上手だからといって、料理全般が上手だとは限りません。煮物の味付けも上手かどうかは、ラップからは分かりません。ただ、少なくとも「台所での作業に、自分なりの品質基準を持っている人だ」ということは分かります。そして、その品質基準を持っている人が「私は料理をしていない」と言うとき、そこで起きているのは能力の不足ではなく、もっと別のことです。
人は、自分について語るときより、何気なく手を動かしているときのほうが正直です。自己申告は本人の物差しを通して出てきますが、手つきは物差しを通らずに出てくるからです。
## 第2章:「できない」は能力の報告ではなく、合格ラインの報告である
では、彼女の頭の中で何が起きているのでしょうか。
私の見立てはこうです。彼女にとって「料理ができる」とは、出汁を引き、献立を組み立て、何品かを同時に仕上げて食卓に並べることなのだと思います。その水準に届いていないから、「私は料理ができない」と言うのです。言わば、合格ラインがミシュランの三つ星あたりに置いてあります。
一方の私は、何を作っても「あれ?天才シェフここにいたわ」です。肉を焼いてタレをかけただけで、自分の才能が怖くなります。私の合格ラインは、床に置いてあります。
ここで面白いのは、二人の「できる・できない」の差が、能力の差よりも合格ラインの差で決まっていることです。手先の丁寧さで比べれば、彼女のほうがはるかに上です。それなのに、自己申告では「料理ができない人」と「天才シェフ」になっています。順位が完全にひっくり返っているわけです。
心理学には、この現象を考えるための手がかりがいくつかあります。
一つは、1978年に心理学者のポーリン・クランスとスザンヌ・アイムスが報告した「インポスター現象」です。二人は、学業でも仕事でも高い成果を上げている女性たちが、それでも「自分は本当は大したことがない。周りをだましているだけだ」と思い込み続けている様子を記録しました。後の研究で、これは女性に限らず男性にも同じくらい見られることが分かっています。成果を出している人ほど、自分の成果を自分のものとして受け取れないことがある、という指摘です。
もっとも、インポスター現象の中心にあるのは「いつか化けの皮がはがれる」という不安で、彼女のように淡々と「できない」と言うのとは温度が違います。共通しているのは、実際の出来と自己評価のあいだに大きな食い違いがあり、その食い違いが本人の側からは見えない、という点です。では、なぜ見えないのでしょうか。
手がかりのもう一つは、自分を「こうあるべき」という理想と比べてしまう心の動きです。心理学者のトーリー・ヒギンズは1987年に、人は「実際の自分」と「こうありたい自分」「こうあるべき自分」とのずれを感じたとき、落ち込みや不安を覚えると論じました(自己不一致理論)。ここで大事なのは、ずれの大きさを決めるのが実際の自分の出来だけではないことです。理想の側をどこに置くかで、同じ出来でも、ずれは小さくも大きくもなります。
彼女の場合、理想の側がとても高いところにあります。だから、手つきがどれだけ丁寧でも、ずれは埋まりません。埋まらない以上、本人の実感としては「できない」のです。ですから、それは嘘ではありません。物差しの目盛りを正直に読み上げているだけです。
## 第3章:物差しは、育った家で渡される
では、その高い合格ラインは、どこから来たのでしょうか。
本人に聞いたわけではないので、ここからは推測です。ただ、多くの人に当てはまる推測だと思います。
人は、子どものころ毎日目にしていたものを、無意識のうちに「普通」として受け取ります。毎食きちんとした料理が並ぶ家で育った人にとっては、それが普通です。特別なことだとは思っていません。逆に、食べられれば十分という家で育った人にとっては、カップ麺にネギを散らしただけで立派な料理です。
社会学者のピエール・ブルデューは、こうして育った環境の中で身につく「ものの感じ方・判断の仕方の型」を「ハビトゥス」と呼びました。彼の主著『ディスタンクシオン』は、何を美しいと感じ、何を上品と感じるかという趣味の判断が、実は生まれ育った階層や家庭の中で形づくられていることを、膨大な調査で示した本です。ブルデュー自身は主に階級と趣味の話をしていますが、「何をもって『ちゃんとしている』とするか」という物差しが、本人の意志より先に、育った場所から渡されるという見方は、台所の話にもそのまま当てはまると私は考えています。
実は、私の母がこの型の人です。私から見れば十分すぎるほど家のことをきちんとこなしてきた人なのに、本人は「たいしたことはしていない」と言います。母の中では、あれくらいは「やって当たり前」の範囲に入っているのです。彼女の話を聞いたとき、私は母の顔を思い浮かべました。
ここで強調しておきたいのは、高い合格ラインそのものは悪いものではない、ということです。その物差しがあったからこそ、彼女はラップをピンと張れるし、具の大きさを揃えられるのです。高い基準は、本人の美意識であり、技術の土台でもあります。もしかすると、その基準で生きてきたこと自体が、彼女の成功体験であり、人柄の芯になっているのかもしれません。
問題は、物差しが高いことではありません。**物差しが一本しかないこと**です。
## 第4章:料理だけの話ではない
ここまで料理の話をしてきましたが、同じことはあらゆる場面で起きています。
たとえばプログラミングです。ある人は「書いたプログラムが動いたら、プログラミングができる」と考えます。別の人は「設計、読みやすさ、保守のしやすさ、テスト、セキュリティまで満たして、初めてプログラミングができると言える」と考えます。後者の人は、実際には前者よりはるかに腕が立つのに、自分のことを「まだまだできない」と評価しているかもしれません。
英語もそうです。海外旅行で困らない程度に話せる人が「英語はできません」と言うのは、珍しくありません。その人の合格ラインが「ネイティブと同じように議論できること」に置いてあるからです。
この傾向は、日本ではとくに強く出るようです。心理学者のスティーヴン・ハイネ、北山忍らは1999年の論文で、「人は自分を肯定的に見たがるものだ」という欧米の心理学の前提を日本の研究結果と照らし合わせ、日本ではむしろ自分の足りない点に目を向ける傾向のほうが目立つ、と論じました。日本の文化では、自分の欠点を見つけて直そうとする姿勢そのものが、良いこととされているというのです。
もちろん、これを「日本人はみんな謙虚だ」という話に広げるつもりはありません。ただ、「できます」と言うより「まだまだです」と言うほうが収まりのよい場で長く暮らしていると、合格ラインはじわじわと上がっていきます。誰も下げてくれないからです。
そうして、本当はできる人ほど「できない」と言い、本当はそれほどでもない人が「できる」と言うという奇妙な逆転が、職場にも台所にも起きています。
## 第5章:減点方式の人の隣に、加点方式の人がいること
では、どうすればよいのでしょうか。
ここで私は、自分の「天才シェフ」ぶりを少しだけ弁護したいと思います。
減点方式で生きている人は、自分の作業を見るとき、まず足りないところを探します。ラップをかけても「これくらいは当たり前」と思い、具を切っても「これくらいは料理のうちに入らない」と思います。どれだけやっても、加点が起きません。その結果、能力は高いのに、毎日が少しずつ苦しくなります。
一方、加点方式の私は、肉を焼いただけで点が入ります。能力は低いのに、毎日が楽しいわけです。客観的には笑い話ですが、ここには一つの知恵が含まれていると私は思っています。
心理学者のクリスティン・ネフは、「セルフ・コンパッション(自分への思いやり)」という考え方を研究してきました。失敗したときや足りないと感じたときに、自分を責めるのではなく、親しい友人にかけるような言葉を自分にかけることです。ネフは、これが自己評価を無理に高く保とうとすることとは別物であり、落ち込みにくさや立ち直りやすさと結びついていることを、研究を通じて論じてきました。そして、自分に優しくしたからといって向上心がなくなるわけではない、とも述べています。
ここで言いたいのは、彼女に「基準を下げなさい」と言うことではありません。そんなことを言われたら、彼女はかえって困るでしょう。高い基準は彼女の美意識であって、手放す必要はありません。
言いたいのは、**高い基準を持ち続けることと、低い基準でも満足できることは、両立する**ということです。
丁寧にやりたい日は丁寧にやればいいのです。でも、毎回そうしなければならないわけではありません。疲れた夜はラップを適当にかけたって、おしんこは翌日ちゃんと食べられます。物差しを一本から二本に増やすだけです。「理想の物差し」と「今日の物差し」です。理想は高いところに置いたまま、今日の分は今日の物差しで合格にしてあげるのです。それだけで、同じ手つきの人生がずいぶん楽になります。
そして、その二本目の物差しは、自分で作るより、隣にいる誰かから借りるほうが早いのだと思います。何を作っても「天才シェフ誕生!」と喜んでいる人間が隣にいると、「え、そんなのでいいの?」と思う瞬間が来ます。呆れながらでもいいのです。呆れた瞬間に、物差しが一本増えています。
私はこれを、凡人の効用と呼んでいます。私は以前から「凡人最強説」という考えを書いてきました。注目や評価を求めて背伸びし続ける人生より、目立たず、小さく、自分の物差しで満足できる人生のほうが、結局は幸福に近いのではないか、という考えです。今回の話は、その考えの台所版です。凡人は、自分が楽に生きられるだけではありません。隣にいる真面目な人の肩の力を、少しだけ抜かせる役にも立つのです。
## おわりに
整理しておきます。
「料理できない」と言う人のラップがピンと張っているのは、その人が嘘をついているからではありません。合格ラインがとても高いところにあって、実際の手つきがそこに届いていないと本人が感じているからです。「できない」は能力の報告ではなく、合格ラインの報告です。
その合格ラインは、多くの場合、育った場所で知らないうちに渡されたものです。高い基準そのものは美徳であり、技術の土台です。問題は、物差しが一本しかないことです。
だから必要なのは、基準を下げることではなく、物差しを増やすことです。そして、その二本目の物差しは、隣にいる加点方式の人間から借りられることがあります。
身近に「私なんて全然できなくて」と言う人がいたら、その人の言葉ではなく、手つきを見てみてください。たぶん、言葉よりずっと上手です。そして、もしあなた自身がその「全然できない」と言う側の人なら、一度だけ、自分の手つきを他人のものだと思って眺めてみてください。
ちなみに、彼女がラップしてくれたおしんこは、翌日もしっかりおいしかったです。それを食べながら、私はラップ一枚からここまで考え込んでいました。日常というのは、なかなか侮れません。
## 予想される反論と、それに対する見解
### 反論1:単に謙遜しているだけではないのか
日本では謙遜が礼儀なので、「料理できない」も社交辞令にすぎないのではないか、という反論です。
その可能性はあります。ただ、社交辞令なら、相手や場面によって言い方が変わるはずです。私が見てきた範囲では、彼女はどんな場面でも同じことを言います。そして、ラップや包丁の手つきには、謙遜の入り込む余地がありません。言葉と手つきが食い違い続けているなら、それは礼儀というより、本人の物差しの問題だと考えるほうが自然だと私は思います。もっとも、謙遜の習慣が長く続くうちに物差しそのものが上がっていく、という第4章の見方に立てば、二つは別物ではなく、地続きなのかもしれません。
### 反論2:ラップ一枚と具の切り方だけで、料理ができると言い切るのは乱暴だ
これはそのとおりです。だから本文でも、料理全般が上手だとは言い切っていません。私が言いたいのは「彼女は料理が上手だ」ということではなく、「台所での作業に高い品質基準を持っている人が、自分を『できない』側に分類している」という食い違いのほうです。仮に彼女の煮物の味付けが平凡だったとしても、この食い違いは残ります。
### 反論3:高い基準を持っているからこそ上達するのであって、加点方式は向上心を奪うのではないか
一番痛い反論だと思います。実際、私の料理の腕は、天才シェフを自称し始めてから一向に上がっていません。
ただ、ここで言っているのは、高い基準を捨てて加点方式に乗り換えることではありません。理想の物差しは残したまま、今日の分を合格にする二本目の物差しを足すことです。ネフらの研究が示しているのも、自分に優しくすることが向上心と両立する、ということでした。一本だけの減点方式は、向上心よりも先に、続ける気力を削っていきます。続かなければ上達もしません。
### 反論4:他人の物差しに口を出すのは、余計なお世話ではないか
そのとおりで、だから私は彼女に「基準を下げたほうがいい」とは言っていませんし、これからも言うつもりはありません。物差しは本人のものです。私にできるのは、隣で勝手に天才シェフを名乗り続けることだけです。それを見て「そんなのでいいんだ」と思うかどうかは、彼女が決めることです。
### 反論5:育った環境のせいにするのは決定論的すぎる
育った家だけで物差しが決まるわけではありません。職場、学校、付き合ってきた人たちも、物差しの目盛りを少しずつ書き換えていきます。ブルデューのハビトゥスも、本人の行動を機械的に決めるものではなく、新しい経験の中で少しずつ形を変えていくものとして考えられています。本文で言いたかったのは、「物差しは本人が意識して選んだものではないことが多い」ということです。選んだものではないと気づけば、書き足すこともできるはずです。
## 参考文献
- Clance, P. R., & Imes, S. A.「The Imposter Phenomenon in High Achieving Women: Dynamics and Therapeutic Intervention」(Psychotherapy: Theory, Research & Practice, 15(3), 241–247, 1978)[https://doi.org/10.1037/h0086006](https://doi.org/10.1037/h0086006)
- Higgins, E. T.「Self-Discrepancy: A Theory Relating Self and Affect」(Psychological Review, 94(3), 319–340, 1987)[https://doi.org/10.1037/0033-295X.94.3.319](https://doi.org/10.1037/0033-295X.94.3.319)
- Heine, S. J., Lehman, D. R., Markus, H. R., & Kitayama, S.「Is There a Universal Need for Positive Self-Regard?」(Psychological Review, 106(4), 766–794, 1999)[https://doi.org/10.1037/0033-295X.106.4.766](https://doi.org/10.1037/0033-295X.106.4.766)
- 書籍:『ディスタンクシオン──社会的判断力批判 I・II』ピエール・ブルデュー著、石井洋二郎訳(藤原書店, 1990)
- 書籍:『セルフ・コンパッション[新訳版]──有効性が実証された自分に優しくする力』クリスティン・ネフ著、石村郁夫・樫村正美・岸本早苗監訳、浅田仁子訳(金剛出版, 2021)
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### 著者プロフィール
kentrue(yousystem)
フリーランスクリエイティブエンジニア/現代社会構造分析フリーク/ミュージシャン/ビジネス寓話創作者/思想家/キャバクラ愛好家
麗澤大学不合格、中央学院大学不合格、千葉商科大学不合格、城西国際大学不合格、
日本大学農獣医学部食品経済学科不合格、明治大学商学部二部不合格、
日本大学法学部法律学科二部不合格、神奈川大学不合格、法政大学二部不合格、
専修大学石巻短期大学部不合格、千葉経済大学不合格、
日本大学短期大学部合格、日本大学経済学部1年の留年を経て卒業