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お前も社長なんだぞ――「人生の経営」は自己責任論ではなく、主権の返還である
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## はじめに
実家で昼食をとり、満腹とほろ酔いのまま駅から家まで歩いていた日曜の午後のことです。私はふと「人生って経営だよな」と思いました。
きっかけは母の姿でした。昭和の女性が背負っていたものは、家事や育児の量だけではありません。「男は仕事、女は家庭」という盤石すぎる固定観念、嫁ぎ先との関係、「耐えることが美徳」という空気。何より、逃げ道と選択肢が少なかったことです。「じゃあ、あんたが代わってよ」と言われたら、私は全力で逃げ出すと思います。
もちろん、平成や令和の女性が楽になったわけではありません。役割が固定された不自由さから解放された代わりに、「何を選んでもいいし、何でもこなして当然」という、自由という名の高負荷ゲームが始まりました。男性も同じです。昭和的な稼ぎ手のプレッシャーと、令和的な共感力や家庭での協働の両方を求められています。世代と性別が入り組んだなかで、どこに自分を置き、どんな戦略を選び、どう生き切るか。これは全員に等しく課された問題です。
そう考えて歩いていると、「ということは、私の人生の経営者は私なのだな」という当たり前の結論にたどり着きました。そして、もう一歩進むと、少し危うい場所に出ます。たとえば少年院から出てきた若者にも、私は「お前も社長なんだぞ」と言いたくなるのです。
この言葉は、聞きようによっては自己責任論の言い換えに聞こえます。「お前の人生はお前の責任だ、甘えるな」と。本稿で私が論じたいのは、その逆です。
**「人生は経営である」という見方は、自己責任論ではありません。制約の存在を認めたまま、意思決定の権限だけは本人に返す、第三の立場です。**
自己責任論は「結果はすべてお前のせいだ」と言います。構造論は「お前のせいではない、社会のせいだ」と言います。どちらも一理ありますが、どちらも本人から何かを奪います。前者は本人から「制約を認めてもらう権利」を奪い、後者は本人から「自分で決める権利」を奪います。経営という比喩は、この二つを同時に返せる、珍しい言葉だと私は考えています。
以下、第1章で「人生は経営である」という発想の中身を確認し、第2章でこの比喩が陥りかねない罠(新自由主義的な自己責任論)と正面から向き合います。第3章では少年院を出た若者という最も厳しい場面に当てはめ、第4章で「手放すこと」を資源配分の問題として考えます。第5章では支援する側の姿勢に話を広げます。
## 第1章:人生の経営者は、最初から自分である
### 経営を大企業から引き剥がす
岩尾俊兵さんの『世界は経営でできている』(講談社現代新書, 2024)は、「経営」という言葉をビジネスパーソンや大企業の専有物から引き剥がした本です。出版社の紹介文には、本書の主張として「本当は誰もが人生を経営しているのにそれに気付く人は少ない」「誤った経営概念によって人生に不条理と不合理がもたらされている」という二点が掲げられています。仕事から家庭、恋愛、勉強、老後まで、一見経営と無関係な領域に経営を見出していくエッセイ集です。
ちなみに、この本は独特の自虐が満載で、著者は作中でひたすら「モテない」設定になっています。ですが、読めば読むほど「いや先生、絶対そんなことないでしょう」と突っ込みたくなります。自虐で読者の心理的なハードルを下げながら、核心はきっちり突いてくるからです。私には、あの自虐すら著者自身による「自分の見せ方の経営」に見えます。
岩尾さんの議論で私が重要だと思うのは、経営を「ゼロサムの競争に勝つ技術」ではなく、「限られた資源を使って価値を生み出す営み」として捉えている点です。この定義に立つと、経営者であるかどうかは、会社を持っているかどうかとは関係がありません。時間、体力、感情、人間関係という限られた資源をどう配分するかを決めている人は、全員が経営者です。
### ポーターの教え:何をやらないかを決める
経営戦略論の古典として、マイケル・ポーターの議論があります。ポーターは論文「戦略とは何か」(『[新版]競争戦略論Ⅰ』所収)で、業務効率の改善と戦略を明確に区別しました。他社と同じことをより上手にやるのは戦略ではありません。独自のポジションを選び、そのために**何をやらないか**を決めること、つまりトレードオフを受け入れることが戦略だ、という主張です。
これを人生に当てはめると、驚くほどしっくりきます。
- 他人と同じ土俵で無理に張り合わない(同質化競争の回避)
- 何をやるか以上に、何をやらないかを腹を括って決める(トレードオフの受容)
- 世間が押し付けてくる「こうあるべき」という業界標準に流されない(独自のポジショニング)
昭和の母たちの世代は、このトレードオフを自分で選ぶ余地がほとんどありませんでした。何をやり、何をやらないかは、時代と家族がおおむね決めていたからです。今の私たちは、少なくとも当時よりは、それを自分で選べます。
### 経営権を放棄した経営者
ここで、人生に真剣味を感じられない人のことを考えてみます。不満は口にしても、何も変えません。業績(幸福や健康)が悪化すると「親が悪い」「時代が悪い」「会社が悪い」と言います。惰性の習慣や消耗する人間関係といった不採算事業から、いつまでも撤退できません。
こうした状態を、私は「経営者がいない会社」だと考えています。いや、正確には「経営者はいるのに、本人がその椅子に座っていない会社」です。誰が座るかは選べない椅子なのに、座らないことだけは選べてしまうのです。そのとき、意思決定は空席のまま、惰性と他人の都合で会社が動いていきます。
思わず「おいおい、お前は社長だぞ。その経営でお前の会社は本当にいいのか」と言いたくなります。ただし、この台詞には大きな落とし穴があります。次章ではそれを扱います。
## 第2章:「人生の経営」が自己責任論に転落するとき
### 一番痛い批判
「人生は経営だ」という言葉に対して、最も痛い批判は次のものだと思います。
それは新自由主義のイデオロギーそのものではないか、という批判です。
政治哲学者のウェンディ・ブラウンは『いかにして民主主義は失われていくのか』(みすず書房, 2017)で、新自由主義があらゆる人間活動を経済の言葉に置き換えていく過程を描きました。出版社の紹介によれば、そこでは主体は「人的資本」に、交換は「競争」に、公共は「格付け」に置き換えられます。人は自分という資本の価値を最大化し続ける企業家として振る舞うことを求められ、うまくいかなければそれは投資判断の失敗、つまり本人の責任とされます。
「お前も社長なんだぞ」という言葉は、この論理にそっくりです。社会の側は何もせず、すべてを本人の経営手腕に帰してしまいます。貧困も、学歴も、前歴も、「経営判断の結果」として処理されます。そうであれば、この比喩は弱い立場の人をさらに追い詰める道具になりかねません。
私はこの批判を正当だと考えます。そのうえで、経営という比喩を手放す必要はないとも考えます。ポイントは、「企業家としての自己」と「経営者としての自己」を区別することです。
### 市場価値の最大化と、成功の定義権
ブラウンが批判する新自由主義的主体は、**市場が決めた物差しで**自分の価値を最大化しようとする主体です。成功の基準は外から与えられます。年収、偏差値、フォロワー数、格付け。本人に許されているのは、その物差しの上でどれだけ高い位置を取るかを競うことだけです。
一方で、本物の経営者が持っている最も重要な権限は、**何を成功と定義するかを決める権限**です。売上を最大化する会社もあれば、規模を追わずに品質を守る会社もあります。株主還元を優先する会社もあれば、地域の雇用を守ることを使命とする会社もあります。ポーターの「何をやらないかを決める」という議論を私なりに敷衍すれば、それは「業界の平均的な物差しにそのまま従わない」ということでもあります。
つまり、新自由主義が人に押し付けるのは「市場に評価される商品であれ」という命令であり、私が言いたい「人生の経営者であれ」は、「何を価値とするかを自分で決めよ」という権限の承認です。前者は物差しを外に置き、後者は物差しを内に置きます。この二つは、似た言葉を使いながら正反対を向いています。
### 経営者は制約を否定しない
もう一つ、自己責任論と経営の決定的な違いがあります。自己責任論は、結果を本人に帰属させるために制約を軽視します。「同じ条件でも成功した人がいる」という論法です。
ところが、まともな経営者は制約を軽視しません。むしろ、制約を最も正確に把握しようとするのが経営者です。資金がなければ投資はできません。市場がなければ商品は売れません。一度失った信用を取り戻すには時間がかかります。業界の構造が不利であれば、その不利を前提に戦略を立てるしかありません。ポーターの競争戦略論が業界構造の分析から始まるのは、そのためです。
人生も同じです。生まれた家庭、育った環境、時代、性別、健康、教育。自分で選べなかった条件は山ほどあります。経営として人生を見るということは、これらを「自分のせい」と引き受けることではありません。
- 変えられない条件を正確に把握する
- 変えられる条件を見極める
- 限られた資源をどこに投入するか決める
- 失敗したら原因を分析し、方針を修正する
これが経営の仕事であり、ここには「全部お前の責任だ」という発想は入っていません。入っているのは「それでも、次の一手を決めるのはお前だ」という発想だけです。**責任の所在**と**決定の権限**を切り分けること。経営という比喩の価値は、この切り分けにあると私は考えます。
## 第3章:少年院を出た若者に「お前も社長だ」と言えるか
### 最も厳しい場面で試す
この切り分けが本当に機能するかどうかは、最も厳しい場面で試すべきでしょう。少年院を出た若者の場合を考えます。
彼らには社会がいくつものラベルを貼ります。元非行少年、前歴のある人、支援される対象、雇ってもらう立場の人。これらのラベルが現実に作用することは否定できません。就職の選択肢は狭まり、信用を取り戻すには時間がかかります。本人の努力だけでは越えられない壁もあります。
数字も確認しておきます。法務省の『令和6年版 犯罪白書』によれば、令和元年に少年院を出院した人のうち、5年以内に少年院へ再入院した人は14.2%、少年院への再入院または刑事施設への入所に至った人は21.2%でした。平成12年以降の出院者について見ても、この割合は大きく変わらず推移しています。
この数字は二通りに読めます。「5人に1人は戻ってくる」と読むこともできますし、「この指標で見る限り、約8割は5年以内に施設へ戻っていない」と読むこともできます。もちろん、施設に戻っていないことがそのまま順調な生活を意味するわけではありませんし、この数字が本人の意思の力を証明するわけでもありません。ただ、少なくとも「元非行少年だから、また同じことをする」という属性だけの予言は、この数字の上では成り立たないと言えます。では、同じラベルを貼られながら、道を分けたものは何だったのでしょうか。
### 立ち直る人は、どんな物語を生きているか
犯罪学者のシャッド・マルナは、『犯罪からの離脱と「人生のやり直し」』(明石書店, 2013)で、犯罪を続ける人と犯罪から離脱した人の語りを比較しました。リヴァプールで行われたこの研究で、マルナは二つの対照的な語りの型を見出しています。
犯罪を続ける人々の語りは、マルナが condemnation script(私なりに訳せば「断罪の脚本」)と呼ぶものでした。不遇な子ども時代が現在の自分を一直線に決めてしまい、社会の障壁は越えられないという語りです。そこには「どうにもならない」という無力感が広く漂っていたといいます。
一方、犯罪から離脱した人々の語りは redemption script(「贖罪の脚本」)と呼ばれます。興味深いのは、離脱者たちもまた、過去の行為の背景に社会的な排除や不利があったと語っていることです。彼らは過去を「全部自分のせい」とは引き受けていません。そのうえで、「本当の自分」はもともと善いものであり、今は自分が人生の舵を握っている、そしてこれまでの経験を生かして何かを返す側に回れる、という物語を生きていました。
私はこの対比に、本稿の主張がそのまま表れていると考えます。両者を分けたのは、過去の原因をどこに求めたかではありません。どちらも過去の不遇を語っています。分かれ目は、**現在の決定権を自分が持っていると考えるかどうか**でした。責任の所在と決定の権限を切り分けるという、第2章で述べた区別そのものです。過去の負債は帳簿から消えません。でも、その負債をどう償却し、残った資源で何を始めるかは、経営者が決められます。
### 「お前は被害者じゃない」という言葉の二面性
ここで、言葉の危うさにも触れておきます。「お前は可哀想な被害者じゃない、人生の経営権を他人に渡すな」という言葉は、相手を一人の意思決定者としてリスペクトする言葉にもなりますし、相手の受けた不利益を無視する言葉にもなります。
違いを生むのは、言葉そのものではなく、言う側の姿勢です。相手の制約を知ったうえで、それでも決めるのはあなただと言うのか。それとも、制約を知ろうともせずに、頑張りが足りないと言うのか。前者は主権の返還であり、後者は責任の押し付けです。
本人に責任を求めることと、本人が自分の人生を変えられると信じることは、表裏一体です。本人の責任をすべて否定すれば、本人の意思決定能力まで否定しかねません。逆に、本人の意思決定能力を認めるなら、その選択を尊重する必要が出てきます。「お前も社長なんだぞ」は、その両方を一度に引き受ける言葉であるべきです。
## 第4章:手放すことは、資源配分の問題である
### 選ばなかった人生という幻
私は最近、「Let Go and Build」という曲を作りました。人生を経営として捉える話と、この曲は思いのほか深くつながっています。曲の冒頭はこう始まります。
> Many times we get caught in what we could have had
> The paths we didn't take, the dreams that slipped through our hand
私たちは、選ばなかった道や手から零れた夢に囚われがちです。「もしあのとき」を何度も再生し、頭の中に完璧な世界をつくり上げます。そして続くプレコーラスで、私はこう書きました。
> For who can guarantee that "then" was better than "now"?
「あのとき」のほうが「今」よりよかったと、誰が保証できるのか。
心理学には、この問いに関わる有名な研究があります。ブリックマンらが1978年に発表した宝くじ当選者の研究です。この研究では、高額当選者は対照群と比べて特に幸福度が高いわけではなく、むしろ日常のささやかな出来事から得る喜びは小さかったと報告されています。事故で身体に麻痺が残った人々については、過去を理想化する傾向が見られ、それが現在の幸福にはつながっていなかったとも述べられています。サンプルが小さく、後続研究で異なる結果も出ているため、過度な一般化は禁物です。それでも、「あれさえ手に入っていれば幸福だったはず」という想定がそれほど当てにならないこと、そして過去の理想化が現在を救わないことは、示唆として十分に重いと思います。
ここで大事なのは、後悔を「無理に忘れよう」としているわけではない点です。後悔を支えている前提そのもの、つまり「選ばなかった人生は今よりよかったはずだ」という物語を検証しているのです。前提が揺らげば、感情を力ずくで抑え込まなくても、後悔の足場は少しずつ崩れていきます。
### 何を手放すのか
では、具体的に何を手放すのでしょうか。過去そのものではありません。失敗の分析や、必要な償いまで手放すわけにはいかないからです。第3章で見た離脱者たちも、過去を消してはいませんでした。
手放すべきなのは、**過去が違っていたはずの人生に、現在の経営資源を投じ続けること**です。
時間、注意力、感情、気力。これらは有限の経営資源です。もう変えられない反実仮想にそれを注ぎ続けるのは、撤退すべき事業に資金を入れ続けるのと同じです。これは、経営の世界でいうサンクコストの罠とよく似た構造をしています。過去に投じたコストに引きずられて、合理的な撤退判断ができなくなる状態です。
曲のコーラスでは、こう歌っています。
> These are the cards you're dealt, the pieces in your hand
> Rearrange, combine, create a new master plan.
配られたカードは、自分で選んだものとは限りません。でも、手元にあるカードをどう組み合わせるかは、これから考えられます。創業時の資本金が少なかったからといって、資本金が潤沢な別会社の人生を生き直すことはできません。手元の資源を把握し、組み合わせ、事業をつくるしかありません。「自分には何がなかったのか」から「今あるもので何ができるのか」へ。問いをこう切り替えることが、手放すことの実質です。
### 全員が同じように手放せるわけではない
ただし、ここで一つ注意が要ります。曲の2番では、手放すことに苦しむ人と、そうでない人の両方を描きました。
> Some find it hard to break free, trapped in a mental maze
> But for some, the pain is absent, no struggle to release
何にどれだけ執着するかは、人によって違います。手放せない人に「いつまで引きずっているんだ」と言うのは簡単ですが、それは自分の再建手法を他社に押し付けるようなものです。会社の再建方法は一つではありません。保有資源も、抱えている問題も、取れる戦略も、会社ごとに違います。手放すことに苦しんでいる人は、その苦しみを抱えている自分まで責める必要はありません。少しずつでも、これから何を築けるかを考えていけばよいのです。
タイトルの二つの動詞は、そのために並べました。手放すだけなら、何も築かないまま終わることもあります。築こうとするだけなら、過去に足を引っ張られ続けることもあります。手放して空いた場所に、何を築くかを決める。そのとき初めて、手放すことは諦めではなく、未来への投資になります。
## 第5章:支援する側は、相手を社長として扱えるか
### 善意が経営権を奪うとき
最後に、視点を支援する側に移します。少年院を出た若者を支援する人が、「あなたは大変な境遇だったのだから、私たちが人生を立て直してあげます」という姿勢で接したとします。
これは善意です。疑う余地はありません。ですが、この姿勢には、本人をいつまでも「支援される側」「決めてもらう側」にとどめてしまう危険があります。経営の比喩で言えば、再建のために送り込まれた管財人が、いつまでも経営権を返さない状態です。
一方で、こう問いかける支援者もいるでしょう。「過去に何があったかは知っています。そのうえで、これからの人生について、あなた自身はどういう経営判断をしますか」。
もちろん、住居や仕事、教育、心理的なケアなど、実際に必要なものを提供することは欠かせません。意思の力だけで社会的な障壁を越えられるとは限らないからです。ここを省いて「あなたが決めなさい」とだけ言うなら、それは第2章で見た自己責任論への転落です。
それでも、支援の役割は本人に代わって人生を経営することではありません。**本人が自分で経営できる条件を整え、意思決定を支えること**です。資金繰りを手伝うことと、経営を乗っ取ることは違います。相手を可哀想な人として扱うか、一人の経営者として扱うか。その違いは、思っている以上に大きいと私は考えます。
### 説教しない、という経営判断
曲のブリッジでは、こう書きました。
> You can't force another to see what you have found
> Their journey is their own, on their own sacred ground.
自分が見つけた考え方を、他人も同じように理解するとは限りません。他人の人生は、他人自身のものだからです。「お前も社長なんだぞ」という言葉を、相手に無理やり受け入れさせることはできませんし、すべきでもありません。それをやった瞬間、私は相手の経営権を侵害していることになります。
では何ができるのか。自分自身が、その考え方を生きてみせることです。自分の人生を自分で経営し、選択し、失敗し、修正し、何かを築いていく。その姿が誰かの目に留まるかもしれませんし、留まらないかもしれません。どちらに転ぶかは、私が管理できる成果ではありません。
**他人を変えることを、自分の事業目標にはしません。** これは冷たい態度に見えるかもしれません。ですが私は、自分と他人の人生をきちんと区別することこそ、相手を一人の経営者として尊重する態度だと考えています。
## おわりに
「人生は経営である」という言葉は、使い方を誤れば自己責任論の道具になります。結果のすべてを本人に帰し、社会の側の怠慢を覆い隠す言葉にもなりえます。
しかし、本来の経営という営みは、制約を誰よりも正確に見ようとするものです。そのうえで、何を成功と定義し、何をやらず、限られた資源をどこに投じるかを決める。経営という比喩が返してくれるのは、結果に対する全責任ではなく、**次の一手を決める権限**です。
昭和の母たちは、その権限を時代と家族に預けざるを得ないことが多かったのだと思います。今の私たちは、条件付きであれ、それを自分の手に持っています。持っているのに使わないのは、少しもったいない気がします。
少年院を出た若者に、私が伝えたいのも同じことです。
> お前の過去は事実だ。社会から不利な扱いを受けることも、ある場面では現実だ。それでも、だからお前の人生はお前以外の誰かが決めるものだ、という結論にはならない。
> お前の過去を、これからのお前の可能性の上限にするな。
会社の規模が小さくても、資本金が少なくても、創業時に問題を抱えていても、経営者であることに変わりはありません。
そして、これは他人に向けた言葉である前に、私自身に向けた言葉でもあります。私の会社も、資本金はたいして多くありません。それでも、社長は私です。
Let go, and build.
## 予想される反論と、それに対する見解
### 反論1:結局、新自由主義の自己責任論を言い換えただけではないか
本稿で最も重く受け止めている批判です。第2章で論じたとおり、私は「市場が決めた物差しで自分の価値を最大化せよ」という企業家的主体と、「何を成功とするかを自分で定義する」経営者的主体を区別しています。ただ、この区別が言葉の上だけで終わる危険は認めます。実際の社会では、「経営者たれ」という言葉が前者の意味で流通していることのほうが多いでしょう。だからこそ、この比喩を使う人には、制約の把握と成功の定義権という二点を必ずセットで語る責任があると考えます。それができないなら、この比喩は使わないほうがよいとすら思います。
### 反論2:選択肢がほとんどない人に「経営者」と言うのは残酷ではないか
選択肢の幅が人によって大きく違うのは事実です。ただ、選択肢が少ない状況ほど、残されたわずかな選択を本人が行う意味は大きくなる、と私は考えます。経営の世界でも、資金が尽きかけた会社の再建では、取りうる手の少なさゆえに一つひとつの判断が重くなります。選択肢の少なさは、経営者でなくなる理由にはなりません。ただし、選択肢を増やすのは本人だけの仕事ではなく、社会と支援者の仕事でもあります。この点を省いて本人だけに経営を求めるなら、それは確かに残酷です。
### 反論3:人生を経営に喩えると、人間関係や愛情まで損得勘定になってしまう
もっともな懸念です。ですが、岩尾さんの議論がそうであるように、経営とはゼロサムの損得勘定ではなく、限られた資源で価値を生み出す営みです。そして何を価値とするかは経営者が決めます。家族との時間や友情を、採算とは無関係に最優先する「経営方針」も十分にありえます。経営の比喩は、損得を計算せよという命令ではなく、何を大切にするかを自覚せよという問いかけだと考えています。
### 反論4:少年院を出た人は、そもそも経営の前に生活基盤が必要だ
そのとおりです。住居も収入もない状態で「あなたの人生の経営方針は」と問うのは、順序が逆です。第5章で述べたように、支援の役割は経営できる条件を整えることにあります。私が言いたいのは、条件整備と主権の承認は二者択一ではないということです。生活基盤を整える支援をしながら、その支援の受け方すら本人が決められるように接する。基盤が整うまで本人を「決めてもらう側」に置き続けると、基盤が整ったときに経営の椅子へ座り方がわからなくなる恐れがあります。
### 反論5:「過去を手放せ」は、被害を受けた人の怒りを封じることにならないか
なります。だから私は、過去そのものを手放せとは言っていません。不当な扱いに対する怒りや、償いを求める正当な主張は、手放すべきものではありません。手放す対象は、「過去が違っていたはずの人生」という反実仮想に、現在の資源を投じ続けることです。怒りを社会への働きかけに変えるなら、それは過去への執着ではなく、未来への投資です。区別は難しいですが、問うべきは「その感情は、これから何かを築くことにつながっているか」だと思います。
### 反論6:書き手は結局、恵まれた立場からものを言っているのではないか
私は少年院を経験していませんし、昭和の女性として生きたわけでもありません。その意味で、当事者の苦しみを本当にはわかっていないという批判は、甘んじて受けるしかありません。ただ、私自身も多くの不合格と遠回りを重ねてきた、資本金の少ない会社の社長です。他人に経営を説くつもりはありません。第5章で書いたとおり、私にできるのは自分の会社を自分で経営してみせることだけです。この論考もまた、その経営判断の一つです。
### 反論7:経営者とは結果責任を負う存在だ。権限だけ返して責任を外すのは、比喩の都合のいい切り取りではないか
比喩の内側から突かれる、最も鋭い批判だと思います。たしかに現実の経営者は、業績が悪化すれば理由を問わず責任を問われます。「市場環境が悪かった」は言い訳として通りません。その意味で、「権限は持つが責任は問わない経営者」というのは形容矛盾に見えます。
ただ、私が切り分けているのは「結果に対する責任」ではなく、「制約の発生原因に対する責任」です。経営者は、前任者が残した負債や業界の不況について、それを生んだ責任までは負いません。負うのは、その条件のもとで下した判断の結果に対する責任です。人生も同じで、生まれた家庭や過去に受けた不利の原因まで本人に帰すべきではありませんが、今日から下す判断の結果は本人が引き受けます。マルナの離脱者たちが、過去の背景を外に求めながら現在の舵は自分で握ったように、です。したがって本稿の立場は、責任を消すものではなく、責任の対象を「これから」に限定するものです。この線引きが現実の場面でいつも明確だとは言いません。それでも、線を引こうとすること自体が、自己責任論とも、責任を一切問わない立場とも違う第三の道だと考えています。
## 参考文献
- 『世界は経営でできている』岩尾俊兵(講談社現代新書, 2024)
- 『[新版]競争戦略論Ⅰ』マイケル・E・ポーター著, 竹内弘高監訳(ダイヤモンド社, 2018)
- 『[新訂]競争の戦略』M・E・ポーター著, 土岐坤・中辻萬治・服部照夫訳(ダイヤモンド社, 1995)
- 『犯罪からの離脱と「人生のやり直し」――元犯罪者のナラティヴから学ぶ』シャッド・マルナ著, 津富宏・河野荘子監訳(明石書店, 2013)
- 『いかにして民主主義は失われていくのか――新自由主義の見えざる攻撃』ウェンディ・ブラウン著, 中井亜佐子訳(みすず書房, 2017)
- 「Lottery winners and accident victims: Is happiness relative?」Brickman, P., Coates, D., & Janoff-Bulman, R.(Journal of Personality and Social Psychology, 36(8), 917–927, 1978)[DOI](https://doi.org/10.1037/0022-3514.36.8.917)
- 令和6年版 犯罪白書 第5編第5章3「少年院出院者の再入院等の状況」- 法務省(2024)[URL](https://hakusyo1.moj.go.jp/jp/71/nfm/n71_2_5_5_0_3.html)
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### 著者プロフィール
kentrue(yousystem)
フリーランスクリエイティブエンジニア/現代社会構造分析フリーク/ミュージシャン/ビジネス寓話創作者/思想家/キャバクラ愛好家
麗澤大学不合格、中央学院大学不合格、千葉商科大学不合格、城西国際大学不合格、
日本大学農獣医学部食品経済学科不合格、明治大学商学部二部不合格、
日本大学法学部法律学科二部不合格、神奈川大学不合格、法政大学二部不合格、
専修大学石巻短期大学部不合格、千葉経済大学不合格、
日本大学短期大学部合格、日本大学経済学部1年の留年を経て卒業
ハッシュタグ
#人生の経営 #世界は経営でできている #岩尾俊兵 #自己責任論 #競争戦略 #犯罪からの離脱 #LetGoAndBuild #主体性
記事情報
公開日
2026-10-11 23:15:04
最終更新
2026-10-11 23:15:06