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プライドは資産か、負債か——690円の電気代から読む「人生の簿記」
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## はじめに
2020年の秋、大阪府池田市の市長が、市庁舎に家庭用の簡易サウナを持ち込んでいたことが報じられました。市長は「腰を痛めていて、リハビリのためだった」と説明し、電気代として690円を市に返還しました。
690円です。缶コーヒー数本分です。
この数字を見たとき、多くの人は笑ったと思います。私も笑いました。けれども、しばらくして笑えなくなりました。この690円という金額は、ある種の人間の意思決定を、恐ろしいほど正確に映しているのではないかと思えてきたからです。
市長はその後、辞職しました。辞職に至る経緯は複合的なものでしたが、私の見方を言えば、690円を惜しんだから職を失ったのではありません。690円で済むように見えていた何かが、実は帳簿のどこにも載っていない巨大な負債だったのではないか。私はそう考えています。
本稿で私が論じたいのは、次の一点です。
**私たちが「守るべき資産」だと思っているプライドや見栄は、多くの場合、帳簿に載らない負債です。そして、小さな恥を早めに損失として計上してしまう人ほど、人生のバランスシートは健全に保たれます。**
「プライドは人を支える財産だ」「弱みを見せたら負けだ」という通念は根強くあります。私はこの通念に異を唱えます。ただし、プライドそのものを否定するのではありません。その財産の「帳簿価格」と「時価」が、あまりにもずれていることが多いのではないか、と問いかけたいのです。
以下、まず事件を帳簿として読み直し(第1章)、プライドという勘定科目の正体を考え(第2章)、隠蔽がなぜ複利で膨らむのかを見て(第3章)、そのうえで私自身の「等身大の会計」と、その限界を検討します(第4章)。最後に、読者の皆さんの帳簿の話をさせてください(第5章)。
簿記の知識は要りません。借方と貸方の区別がつかなくても大丈夫です。私も時々わからなくなります。
## 第1章:690円の領収書——事件を「帳簿」として読み直す
まず、報道と公的資料で確認できる事実を整理しておきます。なお、事件から年月が経ち、当事者は現在は公職を離れていますので、本稿では個人名を記さず「当時の市長」と呼ぶことにします。
当時の市長は、2019年4月に池田市長に初当選した人物です。2020年秋、市庁舎に家庭用サウナを持ち込んでいたことが報じられます。毎日新聞によれば、市長は2020年9月中旬に自宅にあったサウナを市長室近くの控室に持ち込み、3日に1回ほどの頻度で昼休みに使っていたと説明しました。そして、自己申告の利用回数(30回)をもとに市が試算した電気代690円を返還しています。
その後、サウナ以外の私物の持ち込みや、職員へのパワーハラスメントの疑いなどが次々に取り沙汰されます。庁舎での宿泊については、市議会の調査報告書によれば、市長自身が議長への報告文書で、2020年9月から10月にかけて計17日間、市長控室に宿泊したと報告しています。本人は、その理由を多忙な公務のためと説明していました。市議会は調査特別委員会(いわゆる百条委員会)を設置し、2021年4月にまとめた報告書で、市長としての資質に著しく欠けるとして辞職を求めました。さらに市議会は、百条委員会での証言に虚偽があったとして、地方自治法違反の疑いで告発状を大阪地検に提出しています。
市長は2021年7月30日付で辞職しました。同年8月の出直し市長選挙に再び立候補しましたが、4人中4位で落選しています。
公平のために付け加えておくと、告発については、2021年9月に大阪地検特捜部が不起訴(嫌疑不十分)としたと報じられています。本稿は前市長個人を裁くためのものではありません。私が関心を持っているのは、この一連の経過が描く「意思決定の形」です。
では、帳簿として読み直してみます。
もし市長が庁舎で夜を過ごす必要に迫られていたのだとして(本人は多忙な公務のためと説明しており、それ以上の事情を私は知りません)、選択肢はおおまかに二つあったはずです。
一つは、自腹で近所に部屋を借りることです。市長の報酬があれば、ワンルームの家賃を払うことは難しくなかったでしょう。月に数万円から十万円ほどの、**確定した小さなコスト**です。
もう一つは、庁舎で済ませることです。家賃はゼロ、光熱費もほぼゼロ。後から計算しても690円です。**目に見えるコストは、ほとんど発生しません。**
目に見える数字だけを並べれば、後者のほうが圧倒的に「得」です。問題は、後者には帳簿に書かれていない項目があったことです。発覚したときに失うもの、つまり信用、地位、政治生命、そして社会的な評価です。これは起きるかどうかわからない損失ですが、起きたときの金額は、家賃とは桁の違うものになりえます。
会計の世界には「偶発債務」という考え方があります。訴訟や保証のように、今はまだ確定していないけれども、条件次第で将来支払わなければならなくなる債務のことです。
念のため断っておくと、市長本人が実際に何を考えていたのか、私にはわかりません。ここで描いているのは、外から観察できる行動の結果を、帳簿の形に並べ直したものにすぎません。そのうえで言えば、少なくとも結果から見る限り、この選択は偶発債務をほぼゼロと見積もった場合にしか合理的になりません。
目の前の家賃は「損」に見えます。庁舎の無料の電気は「得」に見えます。けれども、その「得」には、帳簿の外側で巨大な偶発債務がぶら下がっていたのです。
## 第2章:プライドは資産か、負債か——見えない勘定科目
では、なぜそのような見積もりの誤りが起きるのでしょうか。
ここで、行動経済学の知見を少しだけ借ります。経済学者のリチャード・セイラーは、人間がお金を心の中で別々の「勘定」に分けて管理する傾向を「メンタル・アカウンティング(心の会計)」と呼びました。私たちは、同じ1万円でも、給料として入った1万円と、宝くじで当たった1万円を、違う財布に入れて違う使い方をしてしまいます。
この「心の会計」には、もう一つ厄介な特徴があると私は考えています。**勘定科目そのものを、自分で決めてしまう**ことです。
たとえば「市長らしく、ちゃんとして見えること」。本人の心の帳簿では、これはおそらく資産の側に記入されています。自分を支えてくれる財産であり、選挙に勝つための元手でもあります。
しかし、その「ちゃんとして見える自分」を維持するためには、支出が要ります。見せたくないものを隠す手間。辻褄を合わせるための説明。バレないかという緊張。周囲への口止め。これらはすべて、資産を維持するための費用です。
そして、維持費が資産の生み出すリターンを上回るとき、それはもはや資産とは呼べません。帳簿上は資産として計上されていても、実態としては負債です。
社会学者のアーヴィング・ゴッフマンは、日常生活を一種の舞台として描きました。人は他者の前で「役」を演じ、印象を管理しています。舞台の上(表領域)と楽屋(裏領域)があり、観客に楽屋を見せないことで演技が成り立ちます。ゴッフマンの描写を読んでいると、印象の管理とは、それ自体が相当な労力を要する仕事なのだとわかります。
ここで押さえておきたいのは、演じることそのものは悪ではない、ということです。誰だって職場では多少よそ行きの顔をしますし、それで社会は円滑に回っています。問題は、**舞台と楽屋の落差が大きくなりすぎたとき**です。
落差が小さければ、楽屋を少し覗かれても「ああ、そういう人なんだ」で終わります。落差が大きければ、楽屋を覗かれた瞬間に、それまでの演技がすべて嘘だったことになります。
池田市の事件を、ゴッフマンの言葉で言い直すなら、市長室という「表領域」が、いつの間にか「裏領域」に変わっていた、ということになるでしょう。舞台の上に生活用品が持ち込まれ、楽屋と舞台の区別がなくなっていきました。それでも観客には、そこを舞台として見せ続けようとしたように見えます。この落差こそが、帳簿に載らない負債の正体だったのではないかと私は考えています。
ここまでをまとめると、プライドや見栄という勘定科目には、次のような性質があります。
- 本人の帳簿では、資産として記入されやすいこと
- しかし維持費がかかり、その維持費は帳簿に載りにくいこと
- 演じている自分と実物の落差が大きいほど、維持費が膨らむこと
つまり、プライドが資産か負債かは、プライドそのものでは決まりません。**帳簿価格と時価の差**で決まるのです。
## 第3章:簿外債務はどう膨らむのか——隠蔽の複利
帳簿価格と時価の差が問題だとして、その差はなぜ時間とともに広がっていくのでしょうか。
私は、ここに「隠蔽の複利」とでも呼ぶべき構造があると考えています。
ここからは、特定の誰かの話ではなく、架空の人物を使った一般的な模型として考えてみてください。
ある会社員が、取引先への小さな発注ミスをしたとします。すぐに上司に報告すれば、少し叱られて終わる程度のミスです。人が最初に隠したくなるのは、たいていこうした小さなことです。それ自体は、誰にでも起こりうる、恥ずかしいけれども致命的ではない事柄です。会計でいえば、小さな特別損失です。
ところが、これを隠すと決めた瞬間に、隠すための費用が発生します。そして、隠すための行動そのものが、新たな「隠さなければならない事実」を生みます。
その人はミスの穴埋めのために、別の案件の予算をこっそり流用します。流用がばれないよう、報告書の数字を少しだけ調整します。調整した数字と食い違う資料が出てこないよう、同僚に「この件はしばらく黙っていて」と頼みます。一つの隠し事が、次の隠し事の原因になっていくのです。
元本は小さくても、利息が利息を生みます。これが隠蔽の複利です。
さらに厄介なのは、この複利が**他人を巻き込む**ことです。架空の会社員が同僚に沈黙を頼んだように、隠蔽を維持するためには、周囲の人間にも沈黙というコストを負担させなければなりません。
池田市の件でも、百条委員会の調査報告書には、情報の流出を疑われた秘書課の職員が、当時の副市長と市長の後援会長から「秘密保持契約」の書面への署名と拇印を求められた経緯が記されています(市長本人は、契約書の作成を指示していないと証言しています)。誰の意図によるものであれ、周囲の人に沈黙を求める書面が生まれていたこと自体が、この構造をよく表していると私は考えます。そして、他人に負担させたコストは、いつか必ず、利息をつけて取り立てられます。沈黙を強いられた人は、いずれ口を開くからです。
ここで、組織論の知見が役に立ちます。経営学者のエイミー・エドモンドソンは、メンバーが率直に意見を言え、ミスを報告できる状態を「心理的安全性」と呼び、それが欠けた組織では問題が隠され、発見が遅れ、被害が大きくなることを多くの事例で示しました。
エドモンドソンの議論は組織についてのものですが、私はこれを個人の内側にも当てはめられると考えています。自分の弱みを自分自身に対してすら報告できない人は、いわば**心理的安全性のない組織を、一人で経営している**ようなものです。悪い報告は握りつぶされ、帳簿は粉飾され、監査が入ったときにはもう手遅れになっています。
池田市の件で「監査」の役割を果たしたのは、報道と百条委員会でした。監査が入れば、簿外債務は表に出ます。そして表に出たとき、それは元本ではなく、複利で膨らんだ金額として請求されがちです。
帳簿の比喩で言えば、元本はおそらく数万円の家賃で処理できるものだったのではないでしょうか。それが最終的には、市長の職という桁違いの請求書に化けてしまったように、私には見えます。
## 第4章:小さな損を先に計上する——等身大の会計術と、その限界
では、どうすればいいのでしょうか。
答えは、会計の世界ではむしろ常識に属します。**損失は早く認識し、早く計上することです。** 含み損を抱えたまま決算を先送りすれば、傷は深くなるだけです。
ここで少し、私自身の話をさせてください。
私はお腹が出ています。控えめに言ったら閻魔大王に真っ先に舌を抜かれる自信があります。スナックのテーブルを横切る時、腹がボトルに当たりそうになります。なので、座るときに最初に言ってしまいます。
「腹が出てるんで、ボトル倒しそうでごめんね」
これで処理完了です。以後、私は腹を隠すために姿勢を正す必要も、服の選び方に気を遣う必要もありません。追加コストはゼロです。
もう一つあります。私は母親とラーメンを食べに行くことがあります。いい歳をした男が母親とラーメン、と思われるかもしれません。でも私は、スナックで隣に座った女性にも普通に話します。「昨日母親とラーメン食べてきたんだよね」。それで終わりです。
これは謙遜でも自虐でもない、と私は思っています。もっと事務的なものです。**「恥ずかしいと思われるかもしれない」という架空の負債を、そもそも帳簿に計上しない**という会計処理です。
腹が出ているという事実は、隠そうとすればコストを生みます。明かしてしまえば、ただの事実です。母親とラーメンを食べたという事実も同じです。事実そのものには、維持費がかかりません。維持費がかかるのは、事実と、見せたい自分との差額のほうなのです。
研究者のブレネー・ブラウンは、恥(シェイム)と「弱さをさらけ出すこと(ヴァルネラビリティ)」について長く研究してきました。彼女は、弱さを見せることを避けようとする努力が、かえって人とのつながりを損ない、人を消耗させると論じています。私の言葉で言い直すなら、弱さを隠す努力は、帳簿に載らない維持費だということです。
ただし、ここで一つ、正直に書いておかなければならないことがあります。
**等身大の自己開示は、万能の処方箋ではありません。**
社会心理学者のエリオット・アロンソンらが1966年に発表した実験があります。いわゆる「しくじり効果(プラットフォール効果)」の研究です。クイズで高い正答率を示した優秀な人物が、最後にコーヒーをこぼすという失態を演じると、むしろ好感度が上がりました。ところが、正答率の低い平凡な人物が同じ失態を演じると、好感度は下がったのです。
これは、私の主張にとって痛いデータです。弱みの開示が好意的に受け取られるかどうかは、その人がそれ以外の部分でどう評価されているかに左右される、ということを示しているからです。
私が「腹が出ててごめん」と言って笑ってもらえるのは、もしかすると、それ以外の部分で最低限の信頼を得ているからかもしれません。あるいは、スナックという場が、そういう開示を歓迎する場だからかもしれません。職場で、交渉の場で、あるいは差別や偏見にさらされやすい立場の人が同じことをしたとき、同じ結果になる保証はありません。
ですから、私が言いたいのは「何でも明かせ」ということではありません。そうではなくて、**隠すことにもコストがかかっていると自覚して、帳簿に載せたうえで判断してほしい**ということです。
隠すコストと明かすコストを両方とも帳簿に載せて比べれば、隠したほうが安いこともあるでしょう。それはそれで、立派な経営判断です。まずいのは、隠すコストをゼロと見積もったまま、「明かすのは損だ」と思い込むことです。外から見る限り、池田市の件で起きたのは、まさにその見積もりの誤りだったように思えます。
もう一つ、見落とされがちな点があります。等身大の自己開示は、一度やれば終わりではない、ということです。それは**毎日の小さな計上の積み重ね**です。帳簿価格を時価に合わせ続ける、地道な作業なのです。その結果として、帳簿価格と時価の差、つまり「楽屋を覗かれたときの落差」が、いつも小さく保たれます。
楽屋を見られても困らない人が強いのは、楽屋がきれいだからではありません。楽屋と舞台の差が小さいからです。
## 第5章:あなたの帳簿にも載っていないもの
ここまで池田市の事件を題材にしてきましたが、この話は市長に限ったものではありません。
経済学者のソースティン・ヴェブレンは、19世紀末のアメリカ上流階級を観察して「顕示的消費」という概念を提示しました。人は必要のためではなく、他人に自分の地位を見せつけるために消費する、というものです。ヴェブレンの時代から100年以上が経ちましたが、この構造はむしろ大衆化しました。
たとえば、SNSに載せるために予約する店。見栄のために組むローン。本当は興味のない肩書きのための転職。「成功している自分」を演出するための投稿。部下の前で「わからない」と言えずに、わかったふりをして進めてしまうプロジェクト。
これらはすべて、「こう見られたい自分」という資産を維持するための支出です。そして、その資産の時価が本当に帳簿価格ほどあるのか、私たちはあまり点検しません。
ここで、読者の皆さんにいくつか問いを投げかけさせてください。帳簿の棚卸しのようなものです。
- いま、隠すために手間をかけていることはありますか
- それが明るみに出たとき、失うものは何ですか。そして、それは今払っている維持費に見合いますか
- 誰かに沈黙を負担させていませんか
- 「こう見られなければならない」という自己イメージは、誰のためのものですか
私自身、この問いにすべて胸を張って答えられるわけではありません。腹と母については計上済みですが、帳簿の奥のほうには、まだ見ないふりをしている勘定科目がいくつかある気がします。棚卸しは、一度で終わるものではないのだと思います。
## おわりに
690円の電気代から始めました。
あの690円は、市長の心の帳簿に記入された、唯一のコストだったのかもしれません。目に見える費用を丁寧に計算し、きちんと返還しています。その手つきは几帳面ですらあります。けれども、本当に計上すべきだった費用は、別の場所にありました。
私たちは、目に見えるコストには敏感です。家賃、電気代、交通費。一方で、見栄を維持するための費用、隠すための費用、演じ続けるための費用には、驚くほど鈍感です。そして、そうした費用を払い続けている「プライド」という勘定科目を、疑うことなく資産の側に置いています。
プライドそのものを捨てろとは言いません。自分を支える誇りは、本物の資産になりえます。ただ、その資産の帳簿価格が時価とかけ離れていないか、ときどき点検してみる価値はあると思います。
第4章で見たように、明かすことが常に得だとは限りません。けれども、隠すことがタダだということも、決してありません。その両方を帳簿に載せたうえで、計上できる小さな恥は、小さいうちに計上してしまいましょう。腹がボトルを倒してしまう心配があるならば、先に言ってしまいましょう。母親とラーメンを食べたなら、普通に話しましょう。
少なくとも私の場合、それで失ったものは、690円よりずっと少なかったように思います。
## 予想される反論と、それに対する見解
### 反論1:「プライドがあるからこそ、人は努力し、成長できるのではないか」
その通りだと思います。私が問題にしているのは、努力の原動力としての誇りではなく、実態と乖離した自己イメージを維持するための支出です。「こうなりたい」という誇りは将来への投資になりえますが、「こう見られなければならない」という見栄は、現在の実態を隠すための費用です。前者は資産、後者は負債になりやすいと私は考えています。両者の区別は、それが自分を動かしているのか、自分を縛っているのかで見分けられるのではないでしょうか。
### 反論2:「弱みを見せたら、つけ込まれるだけだ」
これは本稿にとって最も痛い反論です。第4章で触れたアロンソンらの実験が示すように、弱みの開示が好意的に受け取られるかどうかは、その人の立場や評価に左右されます。権力関係が不均衡な場や、偏見にさらされやすい立場では、開示が攻撃の材料になる現実も確かにあります。ですから私は、開示を一律に勧めてはいません。主張しているのは「隠すことにもコストがあるのだから、それを帳簿に載せて比較せよ」ということです。比較した結果として隠すなら、それは合理的な判断です。
### 反論3:「池田市の件は、単に個人の資質の問題であって、一般化できない」
個人の資質が大きく関わっていたことは否定しません。ただ、「小さな恥を隠すために、より大きな負債を背負う」という構造は、企業の不正会計や、組織の不祥事の隠蔽でも繰り返し見られるものです。私はこの事件を、珍しい人物の珍しい事件としてではなく、誰の中にもある意思決定の癖が、極端な形で表に出た事例として読みました。もっとも、一つの事例から一般法則を導くことはできません。本稿の主張は、事例による証明ではなく、事例を通じた問題提起として受け取っていただければ幸いです。
### 反論4:「あなたの『腹が出てる』『母親とラーメン』は、失うもののない立場だから言えることだ」
痛いところです。確かに私は市長ではありませんし、選挙もありません。失うものの大きさが違えば、開示のコストも違います。地位の高い人にとっては、小さな恥の開示ですら大きな代償を伴うことがあるでしょう。ただ、地位が高いほど大きくなるのは、開示のコストだけではありません。隠蔽が発覚したときの損失、つまり偶発債務の金額も、同じように大きくなります。両方が膨らむのであれば、どちらが得かは一概には決まりません。だからこそ、両方を帳簿に載せて比べる必要がある、というのが私の答えです。
### 反論5:「バレた隠蔽だけを見て『隠すのは損だ』と言うのは、生存者バイアスではないか」
本稿の論理のなかで、おそらく最も急所を突く反論です。世の中には、隠し通されて誰にも知られなかった見栄や隠し事が無数にあるはずです。それらは報道されないので、私たちの目には入りません。発覚した事例だけを並べて「隠すのは割に合わない」と結論づけるのは、宝くじの外れ券を見ずに「宝くじは儲からない」と言うのと逆向きの誤りかもしれません。
私はこの反論を否定しきれません。ただ、二点だけ応答させてください。第一に、発覚しなかった隠蔽にも、維持費はかかっています。バレなかった人も、バレないように気を張り、説明を用意し、ときに誰かに沈黙を頼んでいたはずです。本稿の主張の中心は「発覚したら損をする」ことではなく、「隠すことには、発覚しなくても維持費がかかる」ことにあります。第二に、発覚の確率が低くても、発覚したときの損失が桁違いに大きいなら、期待値としては無視できません。発覚しないほうに賭け続けること自体が、帳簿に載せるべきリスクなのです。
### 反論6:「等身大の自己開示も、結局は『好感度を上げるための演技』ではないのか」
鋭い指摘です。「自虐でウケを狙う」ことは、それ自体が一つの自己演出でありえます。その場合、「等身大を演じる」ための維持費が新たに発生します。私が言う「等身大の会計」は、ウケを狙う技術ではありません。事実を事実のまま出して、それ以上の意味を持たせない、という事務処理です。笑ってもらえればありがたいですが、笑ってもらえなくても、帳簿は健全なままです。そこが演技との違いだと私は考えています。
### 反論7:「会計の比喩で人生を語るのは、還元主義的すぎる」
その通りで、人生は損益計算書に収まりません。愛情も、誇りも、恥も、数字には換算できません。本稿で会計の比喩を使ったのは、人生を数字に還元するためではなく、普段は意識しない「見えない費用」を見えるようにするためです。比喩は道具であって、真理ではありません。ただ、この道具を使うと、少なくとも「隠すことはタダではない」という一点は、かなりはっきり見えるようになると私は思っています。
## 参考文献
- 『行為と演技——日常生活における自己呈示』E・ゴッフマン著、石黒毅訳(誠信書房, 1974)
- 『本当の勇気は「弱さ」を認めること』ブレネー・ブラウン著、門脇陽子訳(サンマーク出版, 2013)
- 『行動経済学の逆襲』リチャード・セイラー著、遠藤真美訳(早川書房, 2016)
- 『恐れのない組織——「心理的安全性」が学習・イノベーション・成長をもたらす』エイミー・C・エドモンドソン著、野津智子訳(英治出版, 2021)
- 『有閑階級の理論 増補新訂版』ソースティン・ヴェブレン著、高哲男訳(講談社学術文庫, 2015)
- 論文:「The effect of a pratfall on increasing interpersonal attractiveness」Elliot Aronson, Ben Willerman, Joanne Floyd(Psychonomic Science, 4(6), 1966)[URL](https://link.springer.com/article/10.3758/BF03342263)
- 報道:「役所にサウナ持ち込んだ大阪府池田市長 返還した電気代は690円」毎日新聞(2020年11月17日)
- データ:池田市議会 調査特別委員会(百条委員会)調査報告書 - 池田市議会(2021年)[URL](https://www.city.ikeda.osaka.jp/soshiki/gikai/ikedashigikai/11045.html)
- 報道:「大阪・池田市長、7月30日に辞職 サウナ持ち込み問題で」日本経済新聞(2021年6月25日)[URL](https://www.nikkei.com/article/DGXZQOUF25AJB0V20C21A6000000/)
- データ:池田市長選挙(2021年8月29日投票)選挙結果 - 選挙ドットコム [URL](https://go2senkyo.com/local/senkyo/21994)
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### 著者プロフィール
kentrue(yousystem)
フリーランスクリエイティブエンジニア/現代社会構造分析フリーク/ミュージシャン/ビジネス寓話創作者/思想家/キャバクラ愛好家
麗澤大学不合格、中央学院大学不合格、千葉商科大学不合格、城西国際大学不合格、
日本大学農獣医学部食品経済学科不合格、明治大学商学部二部不合格、
日本大学法学部法律学科二部不合格、神奈川大学不合格、法政大学二部不合格、
専修大学石巻短期大学部不合格、千葉経済大学不合格、
日本大学短期大学部合格、日本大学経済学部1年の留年を経て卒業
ハッシュタグ
#人生の簿記 #プライド維持費 #見栄 #自己開示 #池田市長サウナ問題 #簿外債務 #しくじり効果 #等身大
記事情報
公開日
2026-09-18 20:55:17
最終更新
2026-09-18 20:55:19