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「で、僕にとっては?」——節約でもメリハリでもない、体験を先に置く価値判断について

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はじめに

先日、スーパーで「あかふじ」というお米を2,400円ほどで買いました。袋の日付は2025年9月で、新米ではありません。隣には同じ銘柄の新米が2,800円ほどで並んでいましたが、私は迷わず安いほうをカゴに入れました。

その数日後、私は焼き鳥屋のカウンターで山崎のソーダ割りを頼んでいました。

この二つの話を並べて人にすると、たいていこう言われます。「ああ、節約するところでは節約して、使うところでは使う人なんですね」。いわゆる「メリハリ消費」です。

ところが、私の実感はまったく違います。私は米で400円を浮かせて、その分を山崎に回したつもりは一切ありません。2025年の米で十分においしいから、それを買いました。山崎が好きでおいしいから、山崎を頼みました。やっていることは、それだけです。

本稿で私が論じたいのは、この「それだけ」の中身です。通念では、こうした消費は「節約とメリハリの使い分け」として理解されます。しかし私は、ここで起きているのは節約でもメリハリでもなく、「自分の体験を先に置き、価格や世間の評価を後から来る情報として扱う」という判断の順序の問題だと考えています。

そしてこの順序は、お金の使い方だけでなく、本の選び方にも、音楽との出会い方にも、同じ形で現れます。以下では、まず「メリハリ消費」という解釈がどこでずれているのかを確認し(第1章)、同じ構造が本や音楽にも見られることを示します(第2章)。次に、そもそもなぜ多くの場面で世間の評価が判断の入口になりやすいのかを、社会心理学と行動経済学の知見から考えます(第3章)。そのうえで、「自分の感覚」とは本当に自分のものなのか、という一番痛い問いに向き合い(第4章)、最後に、この判断の順序を日常でどう扱えばよいかを考えます(第5章)。

第1章:「節約上手」という誤読

メリハリ消費の前提にあるもの

世間でいう「メリハリ消費」には、暗黙の前提があります。それは、予算という限られたパイを、我慢と贅沢に配分するという発想です。

  • 米は安いほうで我慢する
  • 浮いたお金で、酒には贅沢をする

この図式では、古米を選ぶことは「本当は新米が欲しいけれど、ここは妥協する」という意味になります。そして山崎は「妥協の見返りとして自分に許すご褒美」になります。二つの選択は、一本の予算線の上で綱引きをしている関係です。

外から見ると、私の行動はこの図式にぴったり当てはまります。だからこそ、「メリハリ上手ですね」と言われるわけです。

実際に行われている判断

しかし、私の中で行われている判断を分解すると、綱引きはどこにもありません。

米について私が自分に問うているのは、「400円を足して新米にしたら、私の食卓はどれだけよくなるか」ということです。そして答えは「ほとんど変わらない」です。このお米は何度も食べてきましたので、2025年の米で私にとって十分においしいことは、舌がすでに知っています。だから400円を払う理由が見当たりません。もし古米が売っていなければ、新米を買います。そこに葛藤はありません。

山崎について私が問うているのは、「ほかのウイスキーで山崎の代わりになるか」ということです。答えは「ならない」です。だから山崎を頼みます。

つまり、二つの選択はまったく同じ一つの問いから出てきています。

その上乗せ分に対して、私の体験は伸びるのでしょうか。

この問いに「伸びない」と答えれば安いほうを選び、「伸びる」と答えれば高いほうを選びます。結果として、ある場面では支出が減り、別の場面では支出が増えます。外から見るとメリハリに見えるのは、その結果の分布にすぎません。

「コスパを完璧に把握している」のとも違う

ここで、「なるほど、つまり費用対効果をきちんと計算している人なのですね」と整理したくなるかもしれません。これも少しずれています。

私は、米の満足度を点数化して価格で割っているわけではありません。「新米にしたら違いを感じるか」「山崎の代わりはあるか」という、ほとんど身体的な問いに、身体的に答えているだけです。計算というより、確認に近い作業です。

ですから、この消費スタイルの特徴は「節約が上手」でも「計算が精密」でもありません。「高い・安い」「世間での評価が高い・低い」が、判断の前面に出てこないという点にあります。価格は判断の材料ではありますが、判断の主語ではないのです。

2,400円の米で満足しているなら、それ以上の米は私にとって「贅沢」ではなく「余計な出費」です。山崎で満足しているなら、山崎は「贅沢」ではなく「欲しいもの」です。この区別は、見た目以上に大きな違いを生みます。

第2章:世間の評価は「判断基準」ではなく「属性情報」

ベストセラーを後から知る

この構造は、お金の話に限りません。

私はベストセラーだからという理由で本を読むことが、ほとんどありません。ところが、面白そうだと思って読んだ本が、あとで調べてみると大ベストセラーだった、ということがしばしばあります。

一般的な順序はこうです。

  1. 「100万部突破」「今年一番売れた本」という情報に触れる
  2. 「じゃあ読んでみよう」と思う
  3. 読む

私の場合は、順序が逆になります。

  1. 「なんだか面白そうだ」と思う
  2. 読む
  3. 「面白かった」
  4. 「……え、これそんなに売れていたのですか」

ここで大事なのは、4番目の情報を知ったあとでも、私の評価は変わらないということです。「売れていたから面白かったのか」とはなりません。「私が面白いと思った」という事実が先にあるからです。

全米2位だった「私だけの一曲」

音楽では、もっと極端な体験があります。

私はAliasというバンドの「More Than Words Can Say」という曲がとても好きで、結婚式では絶対にこれを流そうと決めていました。同時に、私はこの曲について、ずっとある思い込みを持っていました。「こんなに好きなのは私くらいで、たぶん全然売れなかった曲なのだろう」と。

ところが、ふとしたきっかけで調べてみると、この曲は1990年に米ビルボードのHot 100で2位まで上がり、カナダでは1位を獲得した大ヒット曲でした。さらに、Aliasは、私が若いころに死ぬほど聴いたカナダのバンド、Sheriffのボーカルのフレディ・カーシとギターのスティーヴ・デマーキが結成したバンドだったのです1。

二度、驚きました。

一度目の驚きは「全米2位だったのですか」です。二度目は「Sheriffのメンバーだったのですか。それなら私が好きになるわけです」という、因果関係の発見です。

このとき、「全米2位」という情報は、私の評価を作った情報ではありません。何十年も前に成立していた評価に、あとから付いてきた情報です。そしてSheriffとのつながりは、私の好みに一貫した筋があったことを、あとから教えてくれました。もっとも、その「筋」がどこから来たのかは、第4章であらためて問い直すことにします。

米・酒・本・音楽を貫く一本の線

ここまでの例を並べると、共通する構造が見えてきます。

対象 世間の評価から入る順序 私の順序
米 新米だから価値がある 食べておいしい → 価値がある
酒 高い酒だから価値がある 山崎が好き → 価値がある
本 ベストセラーだから読む 面白そう → 読む → 面白かった
音楽 全米2位だから聴く 好きになる → 数十年後に全米2位と知る

世間の評価は、判断基準としてではなく、「あとから知ることもある属性情報」として置かれています。「へえ、売れていたんですね」「へえ、評価が高いんですね」で受け取り、判断はすでに済んでいるのです。

ここで強調しておきたいのは、これは逆張りではないということです。「世間が新米を勧めるから、あえて古米を買ってやる」ではありませんし、「ベストセラーなんてくだらない」でもありません。ベストセラーを読んで「確かに面白い」と感じることはありますし、その場合は世間と私の評価がたまたま一致しただけです。全米2位だと知れば、素直に嬉しく思います。

逆張りをする人は、実は世間の評価を強く参照しています。「世間と逆」を選ぶためには、世間を常に見ていなければならないからです。私の場合、世間は「逆らう対象」ではなく、「判断材料の一つに格下げされた存在」です。

究極的には、この姿勢は一つの問いに集約されます。

「お世間様、あなたは私の代わりに、私の人生を生きてくれるのですか」

米を食べるのも、山崎を飲むのも、本を読むのも私です。財布も舌も時間も私のものである以上、価値判断くらいは私にさせてほしい、というわけです。

第3章:なぜ世間の評価は入口になりやすいのか

とはいえ、私の順序が「普通」でないのだとすれば、なぜ多くの場面で世間の評価が判断の入口になるのでしょうか。これを「世間に流される人が愚かだから」と片づけるのは誤りです。そこには十分に合理的な理由があります。

他人の選択は、便利な近道である

社会心理学者のロバート・チャルディーニは、人が他人の行動を手がかりに自分の行動を決める傾向を「社会的証明」と呼びました2。何が正しいか分からないとき、多くの人が選んでいるものを選ぶのは、情報収集のコストを大幅に節約する近道です。

経済学でも、同じ現象が理論化されています。ビクチャンダニ、ハーシュライファー、ウェルチは1992年の論文で、前の人々の行動を観察した個人が、自分自身の情報を無視して前の人に従うことが最適になる状況を「情報カスケード」として定式化しました3。つまり、世間の評価に従うことは、多くの場合、非合理ではなく合理的な戦略なのです。

初めて入る街で、行列のできている店を選ぶのは賢明です。私もそうします。問題は、この近道が本来の用途を超えて使われるときに起こります。

世間の評価は、品質をそのまま映さない

サルガニク、ドッズ、ワッツの研究チームは、1万4,341人の参加者を集めて、人工的な音楽ダウンロード市場の実験を行いました4。参加者は無名の楽曲を聴いてダウンロードするのですが、ほかの参加者のダウンロード数が見える条件と、見えない条件が用意されていました。

結果は示唆に富むものでした。ほかの人の選択が見える条件では、ヒット曲とそうでない曲の格差が拡大し、しかもどの曲がヒットするかの予測が難しくなりました。最良の曲がひどく失敗することはまれで、最悪の曲が大成功することもまれでしたが、その中間では、どんな結果もあり得たのです。

これは、「売れているから良いものだ」という推論が、ある範囲までしか成り立たないことを示しています。売上や評判には品質が反映されていますが、同時に「最初に誰が選んだか」という偶然も大きく反映されています。社会的証明という近道は、情報が集まるほど便利になる一方で、雪だるま式の偶然も一緒に運んでくるのです。

価格は、味そのものを変えてしまう

さらに厄介なのは、世間の評価や価格が、判断だけでなく体験そのものを書き換えてしまうことです。

プラスマンらは2008年、20人の被験者にワインを試飲してもらいながら脳活動を測定しました5。実は同じワインを、あるときは5ドル、あるときは45ドルと表示して飲ませたのです。すると被験者は、高い値札が付いているときのほうが「おいしい」と答え、快の感覚に関わる脳部位(内側眼窩前頭皮質)の活動も高まりました。値札は、味の感想を変えただけではなく、快の神経表現そのものを変えていたのです。

一方で、ゴールドスタインらが6,000件を超えるブラインド・テイスティングを分析した研究では、価格を知らされない状態の一般の飲み手においては、価格と評価の相関はわずかに負でした6。平均すると、高いワインのほうがわずかに好まれなかったのです。ただし、ワインの訓練を受けた人では、この関係は負ではありませんでした。

この二つを並べると、興味深い構図が見えてきます。多くの人にとって「高いワインはおいしい」という体験は、ある程度まで値札が作り出した体験だということです。新米の話に置き換えれば、「新米だからおいしい」の一部は、「新米」というラベルがおいしくしている可能性があります。

私が2025年の米で十分においしいと感じられるのは、舌が特別に鈍いからでも鋭いからでもなく、「新米」というラベルに味の上乗せをさせていないからなのかもしれません。

第4章:それでも「自分の感覚」は本当に自分のものか

ここまで読んで、鋭い読者はこう思われたのではないでしょうか。

「プラスマンの実験が示すように、人間の感覚は値札ひとつで書き換わる。だとすれば、あなたが『自分の感覚に忠実』だと信じているその感覚も、実は何かに書き換えられたものではないのか」

これは、本稿の主張にとって一番痛い問いです。私は正面から受け止めなければなりません。

内省はあてにならない

心理学者のニスベットとウィルソンは、1977年の古典的な論文で、人は自分の判断に何が影響したのかを、内省によってほとんど正確に知ることができないと論じました7。人は、自分の反応に強く影響した刺激の存在に気づかないことがあり、自分の判断理由を語るときには、実際の心の過程ではなく「もっともらしい因果の理論」に基づいて説明しがちだというのです。

つまり、私が「山崎が好きだから山崎を頼んでいる」と語るとき、その説明が本当の原因である保証はありません。山崎というブランドの物語や、カウンターで山崎を頼む自分の姿の心地よさが、私の気づかないところで「おいしさ」を底上げしている可能性は否定できません。

趣味は社会的に作られる

さらに根深い批判があります。社会学者ピエール・ブルデューは『ディスタンクシオン』で、何を美しいと感じ、何をおいしいと感じるかという「趣味」そのものが、出身階層や教育によって社会的に形作られており、人々を区別し序列化する働きをしていると論じました8。

この視点に立てば、「世間のラベルに流されず、自分の舌で選ぶ」という私の姿勢もまた、ある社会的な位置から生まれた一つの趣味にすぎません。実際、Sheriffを死ぬほど聴いた若いころの私の音楽体験が、Aliasを好きになる感性を準備していたわけですから、私の「自分だけの好み」にも来歴があります。

純粋な感覚ではなく、判断の順序の問題

では、本稿の主張は崩れるのでしょうか。私はそうは考えません。ただし、主張の輪郭を正確に言い直す必要があります。

私は「社会から一切影響を受けていない、純粋な自分の感覚」を持っていると主張したいのではありません。そんなものは、おそらく誰も持っていません。

私が主張したいのは、判断の場面で、目の前の体験と、ラベルや評判のどちらを先に置くかという、順序の違いです。

プラスマンの実験で被験者の感覚が書き換わったのは、試飲の前に値札を見せられたからでした。第2章で見た本や音楽の例では、ベストセラーであることも、全米2位であることも、評価が成立した後に知っています。

米や山崎の場合は、少し事情が異なります。私は袋の日付も、山崎という銘柄も、口にする前から知っているからです。それでも順序を守っているといえる根拠は、評価が「新米だから」「山崎だから」というラベルからではなく、繰り返し食べ、飲んできた体験の蓄積から作られている点にあります。私が確かめているのは「新米というラベルに400円の価値があるか」ではなく、「これまで食べてきたこのお米に対して、400円分の不満を感じたことがあるか」です。

とはいえ、山崎のように銘柄そのものが強い物語を持つ対象では、この区別が曖昧になりうることを認めなければなりません。本当に誠実であろうとするなら、いつかブラインドで飲み比べてみるべきなのでしょう。もしそれで山崎を当てられなければ、私は笑ってこの章を書き直すつもりです。

私の感性に来歴があることは認めます。けれども、少なくとも「この本はベストセラーです」「この米は新米です」という、その場で与えられるラベルに、体験を先回りさせないようにしています。この点で、順序の違いは実在します。

言い換えれば、完全に自由な感覚は幻想ですが、「ラベルを後回しにする」という手続きは、誰にでも実行可能な、ささやかで具体的な技術です。ゴールドスタインらのブラインド・テイスティングの研究は、ラベルを外した状態での平均的な好みが、値札の序列とは一致しないことを示していました。ラベルを後回しにすれば、少なくとも値札の序列とは別の好みが現れる余地がある、ということです。

第5章:「で、僕にとっては?」というフィルターの使い方

では、この判断の順序を、日常でどのように扱えばよいのでしょうか。

世間の評価を捨てるのではなく、一段下げる

まず確認しておきたいのは、世間の評価を無視せよという話ではないということです。第3章で見たとおり、社会的証明は多くの場面で合理的な近道です。初めての街の飲食店、専門知識のない家電、自分で試しようのない医療などです。こうした領域では、世間の評価や専門家の推薦を入口にするのが賢明です。

私が提案したいのは、自分が直接体験できる領域では、世間の評価を「結論」から「情報の一つ」に一段下げることです。

「この米は新米です」と言われたら、「そうですか」と受け取ります。そして一度だけ、自分に問うのです。

「で、僕にとっては?」

この問いだけは、思わず口をついて出る言葉のまま「僕」と書かせてください。このフィルターを通して「欲しい」と感じれば買い、「いらない」と感じれば買いません。フィルターを通すのはたった一回で構いません。

「最高」ではなく「十分」を知る

心理学者バリー・シュワルツは、選択肢のなかから常に最良のものを選ぼうとする「マキシマイザー」と、自分の基準を満たすものが見つかればそこで選ぶ「サティスファイサー(満足化する人)」を区別し、選択肢が過剰な時代にはマキシマイザーほど後悔や不満を抱えやすいことを論じました9。

私の米の選び方は、この「満足化」に近いところがあります。ただし、一つ重要な違いがあります。私は山崎については、妥協しません。ほかのウイスキーでは代わりにならないからです。

つまり、「十分」の基準は領域ごとに異なり、その基準を決めるのは価格でも世間でもなく、自分の体験だということです。米では「2025年の米で十分」が基準になり、ウイスキーでは「山崎でなければ足りない」が基準になります。この基準の違いこそが、外から見て「メリハリ」に見えるものの正体です。

ささやかな実験のすすめ

もし読者のみなさんが、自分の判断の順序を確かめてみたいと思われたら、小さな実験をおすすめします。

  • いつも買っている「ちょっと高いほう」を、一度だけ安いほうに替えてみてください。違いを感じなければ、その上乗せ分はラベル代だったのかもしれません。
  • 逆に、いつも我慢している「ちょっと高いほう」を一度だけ買ってみてください。違いを感じれば、それはあなたにとって贅沢ではなく「欲しいもの」です。
  • 本や音楽を選ぶとき、レビューの星の数を見る前に、試し読みや試聴を先にしてみてください。

どれも、お金も時間もほとんどかかりません。そして、ここで見つかった「私にとっては十分」「私にとっては代わりがない」という基準は、節約術のどんなノウハウよりも長持ちします。他人が作った基準ではなく、自分の体験から作った基準だからです。

おわりに

米で400円を浮かせたのは、節約のためではありませんでした。山崎を頼むのは、ご褒美のためではありません。どちらも、「その上乗せ分に対して、私の体験は伸びるのか」という同じ問いへの、正直な回答にすぎません。

この問いは、本の選び方にも、音楽との出会い方にも、同じように現れます。私にとって世間の評価は、判断の入口ではなく、あとから知ることもある属性情報です。そのおかげで、何十年も前に好きになった曲が全米2位だったと知ったとき、私は「世間に認められたから価値がある」と感じる代わりに、「私の耳は、ちゃんと何かを聴き分けていたのだ」と、少し誇らしい気持ちになることができました。

もちろん、私の感覚も社会の産物です。値札や評判から完全に自由な人間などいません。けれども、ラベルを体験の後ろに回すことはできます。それは反抗でも逆張りでもなく、自分の財布と舌と時間を使う当事者として、ごく当たり前の順序を守るということです。

世間様は、親切にいろいろなことを教えてくれます。新米のほうがおいしいですよ。旅行くらい行ったほうがいいですよ。いい時計を持ったほうがいいですよ。その親切には、感謝しておけばよいと私は思います。そのうえで、ひとこと付け加えるのです。

「ありがとうございます。で、僕にとっては?」

予想される反論と、それに対する見解

反論1:「結局、ただのメリハリ消費を言い換えているだけではないか」

外形的な行動は、確かにメリハリ消費と同じです。しかし、両者は予算線に対する態度が異なります。メリハリ消費では「ここで我慢したから、あちらで使える」という相互依存がありますが、本稿で論じた判断では、米の選択と山崎の選択は独立しています。仮に収入が倍になっても、私は2025年の米を買い続けるでしょう。収入が変わると選択も変わるならメリハリ消費、変わらないなら体験先行の判断、という区別で検証できます。

反論2:「あなたの感覚も、結局はブランドや物語に影響されているのではないか」

おっしゃるとおりです。詳しくは第4章で論じましたが、内省には限界があり、趣味は社会的に形作られます。山崎の「おいしさ」にブランドの物語が混ざっている可能性も、私は否定できません。ただ、本稿の主張は「純粋な感覚を持っている」ことではなく、「その場で与えられるラベルに体験を先回りさせない」という順序の問題です。完全な独立は不可能でも、順序の入れ替えは実行可能です。そして銘柄の物語が強い対象については、ブラインドで確かめるという、もう一段誠実な手続きも残されています。

反論3:「世間の評価に従うほうが、情報コストの面で合理的ではないか」

多くの場面ではそのとおりです。情報カスケードの理論が示すように、他人の選択に従うことが最適になる状況はあります。ですから本稿では、世間の評価を捨てることは勧めていません。自分で試せない領域では大いに頼るべきです。本稿が対象としているのは、米や酒や本や音楽のように、自分で直接体験でき、しかも体験のコストが低い領域です。そうした領域でまで評判に判断を委ねると、サルガニクらの実験が示すような偶然の雪だるまに、自分の満足度まで預けてしまうことになります。

反論4:「それは経済的に余裕がある人の贅沢な話ではないか」

この反論は、半分正しいと思います。山崎を頼めるのは、一定の可処分所得があるからです。しかし、判断の順序そのものに所得の制約はありません。むしろ、予算が限られている人ほど、「新米だから」「有名だから」というラベル代にお金を払わずに済むこの順序は、実利的な意味を持ちます。お金がないときにこそ、「で、僕にとっては?」という問いは、見栄やラベルへの支出を削る道具になります。

反論5:「自分の感覚だけを信じるのは、独りよがりで視野が狭くなるのではないか」

これは本稿の立場にとって、もっとも注意を要する反論です。自分の舌だけを信じると、新しい味や、最初は良さの分からない作品に出会う機会を失うおそれがあります。実際、ゴールドスタインらの研究では、訓練を受けた飲み手は一般の飲み手と異なる評価をしており、経験によって感覚が育つことがうかがえます。ですから、「で、僕にとっては?」は、一度だけ試したうえで答える問いであるべきです。試しもせずに「自分には合わない」と決めつけることは、世間の評価に盲従するのと同じくらい、体験を後回しにしている態度だと私は考えます。ベストセラーを避けるのではなく、ベストセラーであることを理由にはしません。これが本稿の立場です。

反論6:「全米2位の曲が好きだったのは、ヒット曲がラジオで流れていたからで、結局は世間に選ばされていたのではないか」

鋭い指摘です。私がその曲に出会えたのは、おそらくヒットしていたからこそでしょう。出会いの機会は、世間が作っていた可能性が高いと思います。けれども、出会ったあとに「結婚式で流したい」と思うほど好きになったのは、「全米2位だから」ではありませんでした。むしろ私は、売れていない曲だと思い込んでいたのです。出会いは世間から与えられても、評価は体験から生まれます。第4章で述べた「来歴はあるが、順序は守られている」という構造は、この例にもそのまま当てはまります。

反論7:「全米2位と知って『誇らしい』と感じるのは、結局、世間に認められたいからではないか」

これは、本稿にとってもっとも痛い反論かもしれません。世間の評価を「後から来る属性情報」と言いながら、それを知って嬉しくなり、誇らしくなっているのなら、世間の承認を求める心は私の中にしっかり残っていることになります。私はそれを否定しません。自分の好きなものを多くの人も好きだったと知って喜ぶのは、ごく自然なことです。ただ、区別しておきたいのは、承認が評価の根拠になっているのか、評価の後に来るおまけになっているのか、という点です。仮にこの曲がまったく売れていなかったと判明しても、私は結婚式で流すことをやめなかったでしょう。承認は嬉しいものですが、なくても評価は揺らぎません。この非対称性こそが、本稿でいう「順序」の中身です。

参考文献

  • 『影響力の武器[第三版]——なぜ、人は動かされるのか』ロバート・B・チャルディーニ著、社会行動研究会訳(誠信書房, 2014)
  • 『ディスタンクシオン——社会的判断力批判〈普及版〉』ピエール・ブルデュー著、石井洋二郎訳(藤原書店, 2020)
  • 『なぜ選ぶたびに後悔するのか——オプション過剰時代の賢い選択術』バリー・シュワルツ著、瑞穂のりこ訳(武田ランダムハウスジャパン, 2012)
  • 論文:「Experimental Study of Inequality and Unpredictability in an Artificial Cultural Market」Matthew J. Salganik, Peter Sheridan Dodds, Duncan J. Watts(Science, Vol.311, 2006)URL
  • 論文:「Marketing actions can modulate neural representations of experienced pleasantness」Hilke Plassmann, John O'Doherty, Baba Shiv, Antonio Rangel(PNAS, Vol.105, No.3, 2008)URL
  • 論文:「Do More Expensive Wines Taste Better? Evidence from a Large Sample of Blind Tastings」Robin Goldstein ほか(Journal of Wine Economics, Vol.3, No.1, 2008)URL
  • 論文:「Telling More Than We Can Know: Verbal Reports on Mental Processes」Richard E. Nisbett, Timothy D. Wilson(Psychological Review, Vol.84, No.3, 1977)URL
  • 論文:「A Theory of Fads, Fashion, Custom, and Cultural Change as Informational Cascades」Sushil Bikhchandani, David Hirshleifer, Ivo Welch(Journal of Political Economy, Vol.100, No.5, 1992)URL
  • データ:「More Than Words Can Say」(Alias)- Wikipedia(英語版)URL

著者プロフィール

kentrue(yousystem)

フリーランスクリエイティブエンジニア/現代社会構造分析フリーク/ミュージシャン/ビジネス寓話創作者/思想家/キャバクラ愛好家

麗澤大学不合格、中央学院大学不合格、千葉商科大学不合格、城西国際大学不合格、
日本大学農獣医学部食品経済学科不合格、明治大学商学部二部不合格、
日本大学法学部法律学科二部不合格、神奈川大学不合格、法政大学二部不合格、
専修大学石巻短期大学部不合格、千葉経済大学不合格、
日本大学短期大学部合格、日本大学経済学部1年の留年を経て卒業


  1. 「More Than Words Can Say」は1990年11月24日付の米ビルボードHot 100で最高2位、カナダで4週連続1位。作者のフレディ・カーシとスティーヴ・デマーキはSheriffの元メンバー(英語版Wikipedia「More Than Words Can Say」)。 ↩

  2. チャルディーニ『影響力の武器[第三版]』 ↩

  3. Bikhchandani, Hirshleifer & Welch (1992) ↩

  4. Salganik, Dodds & Watts (2006) ↩

  5. Plassmann et al. (2008) ↩

  6. Goldstein et al. (2008) ↩

  7. Nisbett & Wilson (1977) ↩

  8. ブルデュー『ディスタンクシオン』 ↩

  9. シュワルツ『なぜ選ぶたびに後悔するのか』 ↩

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記事情報

公開日
2026-09-17 06:22:55
最終更新
2026-09-17 06:22:56

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