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美徳という名の悪徳 ―― 日本の労働生産性を沈めているのは、誰の善意か
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## はじめに
日本の労働生産性が低い、という話を、私たちはもう二十年以上聞かされ続けています。聞き飽きたと言ってもいいくらいです。そしてその説明も、だいたい決まっています。DXの遅れ。価格転嫁力の弱さ。労働市場の硬直性。円安によるドル換算の目減り。どれも間違ってはいませんし、統計にきちんと出てくる話ばかりです。
ただ、私はこの手の説明を聞くたびに、どうにも腑に落ちないものを感じてきました。説明されているのは「症状」であって、「なぜその症状が二十年も治らないのか」ではないからです。DXが遅れているなら、投資すればよい。価格転嫁ができないなら、値上げすればよい。誰もがそう言い、そして誰もが実行しません。その「しない」の理由が説明されない限り、処方箋はいつまでも紙の上に留まります。
この論考で私が扱いたいのは、その「しない」の中身です。結論を先に申し上げます。日本の労働生産性を底に沈めているのは、能力の欠如でも技術の遅れでもなく、**「自己犠牲を美徳と呼ぶ慣習」が、本来払うべき設計コストを現場に付け替えるための補助金として機能している**という構造ではないか、というのが私の見立てです。そしてこの補助金は、会計帳簿のどこにも載りません。載らないからこそ、二十年間、誰も削減の対象にしなかったのだと考えています。
十七世紀フランスの貴族、ラ・ロシュフコーは『箴言集』の冒頭近くにこう書きました。「われわれの徳は、たいていの場合、偽装された悪徳にすぎない」。彼が見ていたのはサロンの人間観察であって、日本の労働統計ではありません。しかしこの一行は、いまの日本の職場を説明する道具として、驚くほどよく切れます。
以下、順を追って考えていきます。まず数字を確認し、次にその数字に精神論を代入すると何が起きるかを見ます。続いて医療の現場を例に、職掌を分けるという発想が何を救うのかを確認し、その上で「この美徳は誰の得になっているのか」という、いちばん居心地の悪い問いに進みます。そこで得た発想を教育現場に当てはめてみると、ひとつの素朴な改善案にたどり着きます。ところが、その案がなぜ通らないのかを追いかけていくと、議論は「だから教育を変えなければ」という地点へ自然に流れ着き、そしてその地点こそが袋小路であることが見えてきます。最後に、この議論の最大の弱点——経済学の実証研究が示す、身も蓋もない反証——に正面から向き合い、それでもなお残るものを取り出したいと思います。
## 第1章:60.1ドルという数字が意味すること
まず事実関係を押さえておきます。
日本生産性本部が公表した「労働生産性の国際比較2025」によれば、2024年の日本の時間当たり労働生産性は60.1ドル(購買力平価換算で5,720円)で、OECD加盟38カ国中28位でした。就業者一人当たりでは98,344ドル(935万円)の29位です。主要先進7カ国のなかでは、例によって最下位が続いています。おまけに、物価変動を調整した実質ベースの労働生産性上昇率は−0.6%で、こちらは38カ国中33位でした。つまり水準が低いだけでなく、伸びてもいません。
この数字を前にしたとき、日本人が最初に感じる感情は、たぶん困惑だと思います。日本のサービスは丁寧です。電車は時刻表どおりに来ます。商品の梱包は美しく、コンビニの店員は深夜でも礼儀正しい。これだけ手間をかけていて、なぜ28位なのでしょうか。
からくりは計算式にあります。労働生産性とは「生み出した付加価値(金額)÷ 投入した労働量(時間・人数)」です。ここで重要なのは、分子が**金額**であるという一点です。どれほど手間をかけても、その手間に値札が付いていなければ、分子は一円も増えません。むしろ手間をかけた分だけ分母が増えるので、生産性は下がります。
つまり「丁寧なのに生産性が低い」のではありません。**「値札を付けずに丁寧だから、生産性が低い」**のです。これは怠惰の統計ではなく、勤勉の統計です。日本の生産性の低さは、日本人が働いていない証拠ではなく、働きすぎている証拠として読むほうが、はるかに実態に近いと私は考えています。
標準的な処方箋は、ここから二手に分かれます。ひとつは分子を増やす道——バリューベース・プライシング、サブスクリプション化、知的労働の有償化。もうひとつは分母を減らす道——DX、自動化、業務プロセスの廃止。官庁の資料でも経済界の提言でも、書かれていることは概ねこの二つです。
正しい処方箋だと思います。問題は、この処方箋が十年以上前から同じ文面で書かれ続けており、そして実行されていない、ということです。
## 第2章:美徳を計算式に代入する
なぜ実行されないのでしょうか。私は、計算式に「日本的な美徳」という変数を代入してみると、その理由が見えてくると考えています。
日本の職場で称揚される美徳を、乱暴に二つに分けてみます。ひとつは「相手に尽くすこと」。もうひとつは「見返りを求めないこと」。前者は献身、後者は無私と呼ばれ、どちらも道徳の教科書に載っています。
この二つを生産性の式に入れると、何が起きるでしょうか。
「相手に尽くすこと」は、**分母に作用します**。顧客の無茶な要望に応えます。前日の夜に届いた仕様変更に対応します。保護者からの深夜の電話を受けます。暴れる患者を、医師が自ら身体を張って止めます。いずれも投入労働量を増やしますが、増えた分の労働は、多くの場合、請求書に載りません。分母だけが静かに膨らんでいきます。
「見返りを求めないこと」は、**分子に作用します**。しかも増やす方向ではなく、**禁じる方向に**作用します。企画書を書いてから受注します。要件定義を無料で行います。アフターサービスは当然のように無償にします。相談に乗るのは商売ではなく人情である、とされます。ここで発生している知的労働は、明らかに価値です。しかし「真心に値札を付けるのは浅ましい」という感覚が、その価値の貨幣化を道徳的に禁止します。分子は据え置かれます。
分母を無限に膨らませ、分子への値付けを禁じます。この二つが同時に働けば、比の値が下がるのは、もはや文化論ではなく算数です。日本の美徳は、労働生産性という指標に対して、構造的に二重の下押し圧力をかけるように出来ています。
ここで急いで付け加えておきたいことがあります。私は献身や無私そのものを否定したいのではありません。誰かのために骨を折ることは、人間の営みとして端的に美しいと思っています。問題は美徳の存在ではなく、**美徳が「無料の資源」として制度に織り込まれ、それを前提に組織が設計されている**ことです。善意とは湧いて出るものであって、予算を組んで調達するものではない——この前提が成り立っているかぎり、経営者も行政も、善意を調達するための費用を計上する必要がありません。
## 第3章:屈強な警備員が来る国と、先生が呼ばれる国
抽象論が続いたので、具体的な現場を見ます。医療現場、とりわけ精神科の病棟です。
日本の精神科で患者が興奮し、暴れ出したとき、現場に呼ばれるのは誰でしょうか。多くの場合、主治医と看護師です。彼らが説得し、なだめ、それでも収まらなければ、白衣のまま身体で押さえます。「患者の心に寄り添う」「信頼関係で落ち着かせる」という言葉が、この対応を正当化してきました。
ここで、まったく別の光景を想像してみてください。ナースコールで駆けつけるのが、白衣の医師ではなく、かつてK-1のリングに立っていたボブ・サップのような体格の警備員だったとしたらどうでしょうか。彼は淡々と安全を確保し、多少の擦り傷を負っても、たぶんこう言うはずです。「いやいや、これが俺の仕事だからね」と。この一言が成立する社会と、成立しない社会があります。その差は、根性の差ではなく、設計思想の差です。
私はここで「欧米ではすべてそうなっている」と断定するつもりはありません。実務の運用は国によっても病院によっても異なりますし、私の手元に各国比較の統計があるわけでもありません。ここで確認したいのは、あくまで**設計思想として二通りの選択肢が存在する**ということ、そして日本が一方を選び続けてきた結果がどうなっているか、という点です。
物理的な制圧を専門職に分離するという設計には、少なくとも二つの合理性があります。
第一に、リスク管理として合理的です。医師一人を育てるには十年以上の歳月と、社会的には相当規模の投資がかかります。その希少なリソースを、体格と制圧技術の専門家が担当すべき領域で消耗させるのは、経営としても社会設計としても割に合いません。医師が負傷して休職すれば、止まるのはその医師の労働だけではなく、その医師が担当していた数十人の患者の治療です。目の前の一人を押さえるために、背後の数十人を人質に取っている——そう言い換えても、あまり大げさではないと思います。
第二に、治療関係の保全として合理的です。患者を力ずくで押さえた人間が、翌日「調子はどうですか」と診察に入るのは、治療的にかなり無理があります。役割を分けておけば、医療者は「大変でしたね」と味方の位置から治療に戻れます。制圧役と癒やし役を分離するのは、冷徹さではなく、治療技術の一部です。
ここで、ひとつ重要な留保を置かせてください。私は「暴力対応をまるごと警備員に丸投げせよ」と言っているのではありません。
精神科医療の現場には、**CVPPP(包括的暴力防止プログラム)**という専門的な体系があります。2018年に設立された日本こころの安全とケア学会が管理し、国立精神・神経医療研究センターなどで指導者養成研修が行われている、精神科領域の暴力に対処するためのプログラムです。リスクアセスメント、ディエスカレーション(患者の怒りが和らぎ穏やかな状態に戻るよう導く交渉技術)、ブレイクアウェイ(危機からの離脱)、個人またはチームで行う介入技術、そして出来事の振り返りまでを含みます。
そしてこのプログラムの根幹にあるのは、パーソンセンタードという理念です。当事者も援助者も同じ「人」として尊重されるべき存在であり、身体的な介入もまた、制圧ではなく**ケアの一部**として位置づけられます。興奮した患者への対応は、いつ鎮静薬を用いるか、いつ身体拘束に踏み切るか、そのとき患者の尊厳をどう守るかという、きわめて高度な医療判断と不可分です。これを訓練されていない外部の人間に委ねれば、患者の安全も治療も損なわれます。まったく正当な指摘だと思います。
ですから、私が分けたいと言っているのは、**ケアとしての介入そのものではありません**。その手前にある、初期の威圧への対処、物理的な盾としての役割、そして安全が確保されるまでの時間を稼ぐ機能です。医療判断はあくまで医療者が下します。しかし、その判断を下す人が、同時に殴られうる位置に立ち続けなければならない理由は、どこにもありません。分けたいのはそこです。
そして、この留保を置いた上で、かえって浮かび上がってくる問いがあります。**CVPPPという専門技術が存在するとして、それを実行するための資源は、現場に与えられているのでしょうか。**
チームで介入する技術は、当然ながらチームがいなければ成立しません。訓練には時間が要り、時間には人件費がかかります。もし研修の機会も、夜勤帯に人を集める余裕も与えられないまま、「CVPPPを学んでいるのだから対応できるはずだ」とされるのなら、それは専門技術の名を借りた、また別の丸投げです。技術が存在することと、技術を使える体制があることは、まったく別の話です。
では、日本の現場は実際どうなっているのでしょうか。数字ははっきりしています。厚生労働科学特別研究として実施された全国調査では、患者・家族等による身体的暴力、精神的暴力、セクシュアルハラスメントのいずれかの報告があった施設は85.5%にのぼりました。看護職等について労災適用があった施設は22.4%。暴力が原因で看護職等が休職した施設も5.6%あります。精神科病院を対象とした研究では、言語的暴力を経験した看護師が57.0%、そのうち複数回経験した者が84.6%という報告もあります。
これは「まれな事故」ではありません。常態です。常態であるにもかかわらず、多くの現場で、それは「医療者が引き受けるべきもの」として処理されてきました。
私が引っかかるのは、この配置が誰の意思決定の結果なのか、という点です。医師や看護師が「自分が押さえたい」と手を挙げたわけではありません。警備の専門職を配置する予算を付けなかった誰かがいて、その不作為の結果として、現場が身体を張っています。そして不作為は「寄り添い」という美名で塗装され、意思決定として可視化されないまま、二十年、三十年と続いてきたわけです。
## 第4章:その美徳は、誰の得になっているのか
ここで、いちばん居心地の悪い問いを立てます。
「現場の自己犠牲を美徳と呼ぶ文化」は、誰にとって都合がいいのでしょうか。
誤解を避けるために先に申し上げておくと、私は「悪い経営者が意図的にこの仕組みを設計した」という陰謀論を唱えたいわけではありません。おそらく、誰も積極的には選んでいません。起きているのはもっと平凡なこと、すなわち**コストを負担しない側にインセンティブが偏った状態が、誰にも壊されないまま安定してしまった**ということです。経済学で言う均衡に近いものだと思います。
その偏りの形を見てみます。現場の当人は、疲弊し、負傷し、離職します。顧客や患者や生徒も、担当者が倒れればサービスの継続性を失います。社会全体としても、希少な専門人材が使い捨てられるのは単純に損です。一方で、**その配置を決める立場にいる人**は、警備員の人件費を計上しなくて済みます。保護者対応をアウトソースする委託料を捻出しなくて済みます。システム投資の稟議を通さなくて済みます。無償の要件定義を有償化する交渉で、顧客に嫌われるリスクを負わなくて済みます。
つまり、**コストを払う人と、痛みを受け取る人が、組織の中で分離している**わけです。そして分離が維持されている限り、誰かが特別に邪悪である必要はまったくありません。放っておけば続きます。
だから私は、日本の「美徳」を補助金と呼びたいのです。現場の善意が、設計責任者の意思決定コストを肩代わりしています。しかもこの補助金は帳簿に載らないので、削減対象にもなりませんし、効果測定もされません。二十年間、無審査で支給され続けた補助金です。
ラ・ロシュフコーの言葉が効いてくるのはここです。「われわれの徳は、たいていの場合、偽装された悪徳にすぎない」。彼は、美徳とされる行為の裏側に自己愛が潜んでいることを、執拗に暴いた人でした。日本の職場で私たちが目にしているのは、その現代版だと思います。ただし、偽装された悪徳を抱えているのは、自己犠牲する当人ではありません。**自己犠牲を称賛する側**です。称賛は無料だからです。
この「美徳という名の悪徳」は、三つの働きをします。
ひとつめは、**思考停止の正当化**です。「寄り添う心」「熱意」といった言葉は、リスク分析や業務分解といった面倒な作業を省略するための、便利な代替物として機能します。
ふたつめは、**全体最適の破壊**です。目の前の一人に尽くすという狭い倫理が、背後にいる数十人の不利益を見えなくします。倫理の射程が短すぎるのです。
みっつめは、**正論の封殺**です。「それは非効率です」「リスクが高すぎます」という冷静な指摘に対して、「冷たい」「愛がない」という情緒的なラベルを貼って排除します。山本七平が『「空気」の研究』で描いた、議論を強制終了させる磁力そのものです。彼が例に引いた戦艦大和の出撃と、無償の残業や丸腰での暴力対応のあいだには、構造の相似があります。どちらも、合理的な反論が「空気」によって発言権を失った結果です。
ここで、この論考の立ち位置をはっきりさせるために、一冊の古典に触れておきます。A・R・ホックシールドの『管理される心——感情が商品になるとき』です。
ただし、正直に申し上げておかなければならないことがあります。ホックシールドの議論の向きは、私の議論とは**逆**です。彼女が客室乗務員の調査から描き出したのは、感情の管理が職務として買われ、商品化されることによって、働く人の自我が蝕まれていくという事態でした。つまり彼女にとって、感情労働の商品化は批判すべき対象です。
その上で、私は彼女の概念から別の問いを取り出したいと思います。日本の職場で起きているのは、感情労働が買われすぎていることではなく、**感情労働が職務として要求されながら、労働として認知すらされていない**という事態だからです。クレーム対応で神経をすり減らすことも、保護者の怒りを受け止めることも、暴れる患者に向き合うことも、明確に職務です。しかし対価としては計上されません。認知されていないので、削減も改善も、そもそも議題に上がりません。
商品化されることの害と、商品化すら拒まれることの害は、別物です。私が扱っているのは後者であり、これはホックシールドの結論の援用ではなく、彼女の概念を使った上での分岐だとご理解ください。
## 第5章:保護者対応を外に出してみる——ひとつの思考実験
第3章で見た「職掌を分ける」という発想を、そのまま別の現場に横滑りさせてみます。学校です。
前章までで、希少な専門職に非専門業務を担わせることの不合理は確認できました。であれば、教育現場にも同じ処方が当てはまるはずです。素朴に考えれば、こうなります。**保護者対応の一次窓口を、学校から切り離します。** 複数の学校を束ねる専門の事業者を置き、苦情や要望の受け付けと初期対応をそこに集約します。専任の担当者がその業務に専念すれば、教員の負担は劇的に減るはずです。
民間企業で言えば、何のことはない、コールセンターやカスタマーサクセスの外部委託です。現場のコア業務——教員にとっては授業と生徒指導——にリソースを集中させるための、ごく標準的な設計だと思います。
ところが、この案が文部科学省や教育委員会から出てくる気配は、あまりありません。仮に誰かが提案したとしても、おそらく批判が殺到します。「教育の放棄だ」「子どもの家庭と向き合わないつもりか」「冷酷な合理化だ」。そういう言葉が飛んでくる光景は、わりあい簡単に想像できます。
ここが面白いところです。**構造は医療の場合と完全に相似形なのに、同じ結論を教育に持ち込むことが、これほど難しい。** なぜでしょうか。
実は、この問いには、すでに部分的な答えが出ています。スクールロイヤーという制度です。
文部科学省が2019年に全国配置の方針を示し、翌年から本格導入された、学校・教育委員会に助言する弁護士の仕組みです。同省の「教育行政に係る法務相談体制の整備等に関する調査(令和5年度間)」によれば、スクールロイヤーに相談できる体制がある自治体は、都道府県で87.2%、指定都市で95.0%に達しました。配置そのものは、かなり進んでいます。
では、彼らは何を相談されているのでしょうか。同調査によれば、相談案件として最も多いのは**「保護者等からの苦情や要求に係る対応」**で、都道府県の95.1%、指定都市の100%、中核市の100%がこれを挙げています。調査票の例示には「過剰な苦情、脅迫を伴う要求、書面での回答要求」とあります。
つまり、問題の所在は完全に認識されています。行政は、教員が保護者対応で疲弊していることを知っており、そのために専門職を雇いました。ここまでは、病棟に警備の専門職を配置するのと同じ話に見えます。
ところが、依頼できる業務の内訳を見ると、話が一変します。
- 「助言・アドバイザー業務」を依頼可能:スクールロイヤー配置済自治体の**100%**
- 「保護者との面談への同席業務」を依頼可能:都道府県で**7.3%**(指定都市26.3%、市町村等27.1%)
- 「交渉における代理業務」——学校・教育委員会の代理人として保護者との交渉窓口になる業務——を依頼可能:都道府県で**2.4%**(指定都市26.3%、市町村等13.1%)
この三つの数字の落差が、すべてを語っていると思います。
専門家は、**助言はします**。法的な整理をし、対応の筋道を教えてくれます。しかし、**教員の代わりに窓口に立つことは、ほとんどありません**。都道府県レベルでは、面談に同席してもらえる可能性すら約7%、交渉そのものを引き受けてもらえる可能性は約2%です。
第3章の言葉で言い直せば、こうなります。**制度は、暴れる患者への対処法を医師に助言する専門家までは雇いました。しかし、代わりに前に出る屈強な警備員は、まだ雇っていません。** 矢面に立つのは、依然として現場の教員です。
なぜここで止まるのでしょうか。私は、三つの壁があると考えています。
第一に、**「学校=共同体」という前提が、そもそも疑われていない**ことです。学校を「サービスの提供者と顧客の契約関係」ではなく、「家庭や地域と一体になった全人的な育成の場」とみなす感覚は、制度の設計者にも、保護者の側にも、かなり深く共有されています。この前提に立つと、「担任が愛情をもって引き受けるべきもの」を外に出す行為は、合理化ではなく裏切りとして立ち現れます。
第二に、**責任の所在が曖昧になることへの、行政特有の恐怖**です。外部委託した事業者が対応を誤り、保護者が激怒し、報道や訴訟に発展したとき、問われるのは「委託した行政の管理責任」です。一方、現場の教員が頭を下げて嵐が過ぎるのを待てば、組織の上層部に責任は及びません。ここには、かなり醜いインセンティブ設計が働いています。第4章で述べた「コストを払う人と痛みを受け取る人の分離」が、そのまま効いているわけです。
第三に、**引き算をする権限と覚悟を、誰も持っていない**ことです。教育行政の改革は、英語、プログラミング、探究学習、心のケアと、新しい課題を現場の仕事の上に足していく形で進んできました。「そもそも教員が理不尽な要求に対応する必要があるのか」と問い、業務そのものを廃止したり切り出したりするのは、足すことよりはるかに勇気が要ります。
公平を期すために申し添えると、引き算がまったく起きていないわけではありません。部活動の地域移行は、本物の引き算です。令和4年12月にガイドラインが策定され(令和7年12月に改訂されています)、公立中学校の休日の部活動から段階的に地域へ移す取り組みが進められています。教員の負担軽減を正面から目的に掲げた施策であり、「行政は引き算ができない」という私の見立てに対する、まっとうな反例だと思います。
ただ、そこにも傾向は見えます。**先に切り出されたのは「指導」という、切り出しやすい業務でした。** 技能があれば代替でき、代替した人が感謝される業務です。一方、クレーム対応は、切り出しても誰も感謝しない、引き受け手を探しにくい業務です。そして、より切実に切り出されるべきなのは、おそらく後者のほうです。
さて、ここまで来ると、問いが一段深いところに移ります。
なぜ「そもそも、この業務は教員がやる必要があるのか」と問えないのでしょうか。前提を疑い、既存のプロセスを疑い、場合によっては丸ごと捨てる——そういう思考は、いったいどこで身につくものなのでしょうか。
## 第6章:「だから教育を変えろ」という、自然で、しかし袋小路の帰結
前章の最後の問いに、素直に答えてみます。
前提を疑う思考は、訓練されるものです。そして日本の教育は、まさにその訓練を最も苦手としてきました。用意された正解がひとつあり、それを正確に再現し、減点を避けることで評価されます。十数年そう訓練された人間が、ある日を境に「この業務は必要か」「この前例は正しいか」と問い直せるようになるとは、あまり期待できません。
ですから、「日本の生産性を上げたいなら、教育を変えなければならない」という発想は、**論理的にきわめて自然な帰結**です。私自身、ここまでの流れを辿れば、そこに行き着くのは当然だと思います。
そして実際、文部科学省も同じ方向を向いています。高校の「総合的な探究の時間」の必修化。ペーパーテスト一発ではなく、自ら問いを立てて動いた経験を評価する総合型選抜の拡大。小中学校でのプログラミング教育の導入。理念のレベルでは、「正解の暗記」から「問いを立てる教育」への転換は、すでに宣言されています。
ところが、ここで最大の皮肉が待っています。
**その転換を実行する教員自身が、旧システムの勝者である**ということです。
教員になる人の多くは、ペーパーテスト型の競争を勝ち抜いてきた人たちです。ルールを守り、模範解答を再現し、減点を避けることで評価されてきました。その人たちに「ルールを疑え」と教えさせるのは、自らの成功体験を否定させることに等しいと言えます。泳いだことのない人に、明日からクロールを教えろと言っているようなものです。イメージが湧かないのは怠慢ではなく、人選と研修設計の問題です。
そして、皮肉はもうひとつ重なります。**余白が存在しない**ことです。
文部科学省の教員勤務実態調査(令和4年度・確定値)によれば、週の在校等時間が60時間以上——月80時間の時間外労働、いわゆる過労死ラインに相当します——の教諭は、小学校で14.2%、中学校で36.5%にのぼります。平成28年度調査の小学校33.4%、中学校57.7%からは大きく改善していますが、中学校教員の三人に一人が過労死ラインにいる状態を「改善済み」と呼ぶのは、かなり無理があります。
探究学習を成立させるには、生徒一人ひとりの関心に付き合い、答えの出ない対話を重ねる時間が要ります。その時間を、過労死ラインの人間から捻出することはできません。追い詰められた現場が取れる唯一の選択は、配られた指導要領のテンプレートを、減点されないようになぞることです。つまり、**探究学習という名前の正解主義**が完成します。
ここで、何が起きているかを整理します。
私たちは前章で「保護者対応を外に出せないのはなぜか」と問い、「前提を疑えないからだ」と答え、「では教育を変えよう」と進みました。ところがその教育改革は、**前提を疑う訓練を受けておらず、しかも余白もない教員に、意識を変えろと要求する**という形をとっています。
これは、本論考が批判してきた構造そのものです。**「美徳という名の悪徳」を批判する言説それ自体が、また別の自己犠牲要求になっている**わけです。教育改革を教員の意識改革として語る限り、それは業務を引き算せずに課題を足し算する、行政の最も得意な運動の一種にすぎません。
第4章の問いをここでも立ててみます。「教師が意識を変えるべきだ」という主張は、誰にとって都合がよいでしょうか。答えは同じです。保護者対応の一次窓口を外部委託する予算を組まなくて済む人たち、業務移管に伴う調整の面倒を負わなくて済む人たち、つまり設計側です。
そして、ここから逆向きの結論が出てきます。教育を変えれば保護者対応を切り出せるようになる、のではありません。**順序が逆です。** まず保護者対応を切り出して余白を作らなければ、教育を変える作業に取りかかることすらできません。
引き算をしない改革は、改革ではありません。仕事の追加です。
## 第7章:この論の最大の弱点——資本装備率という身も蓋もない反証
ここまで文化と構造の話をしてきましたが、私はこの種の議論が抱える危険を自覚しています。文化論は便利すぎるのです。何にでも当てはまり、反証しにくく、そして往々にして間違っています。
ですので、自分の主張に対する最も強力な反証を、ここで自分から持ち出しておきます。
経済学の実証研究は、日本の低生産性について、文化とはまったく別の説明を提示しています。一橋大学の深尾京司氏は『「失われた20年」と日本経済』において、JIPデータベースを用いた産業・企業レベルの分析から、日本の生産性停滞を精緻に分解しました。同氏の一連の推計によれば、2010年代初頭の時点で日本の労働生産性は米国の約6割の水準にあり、その格差のうち**半分程度が資本装備率**——労働者一人当たりの設備・機械・ソフトウェアの量——の差に、**四割弱が全要素生産性(TFP)**の差に帰属するとされています。これらはあくまで推計値であり、対象年次や推計手法によって幅が出ることは申し添えておきます。加えて同氏は、日本の生産性問題の相当部分が、雇用の大半を抱える中小企業の生産性の低さと、企業間の生産性格差の拡大に由来することも指摘しています。
これは、私の議論にとってかなり痛い数字です。要するに、「日本人が身を粉にして働くから」ではなく、「働く人一人当たりの機械とソフトが足りないから」生産性が低い、という説明です。ここに美徳は一文字も出てきません。円安によるドル換算の目減りという計算上の要因もありますし、産業構造の違いも効いています。文化を持ち出さなくても、統計はかなりのところまで説明できてしまいます。
その上で、私はこう考えています。**この反証は、私の主張を否定するのではなく、主張が答えるべき問いを一段絞り込む**、と。
なぜなら、資本装備率の低さそれ自体が、説明を必要とする現象だからです。なぜ日本企業は、人を機械に置き換える投資をしなかったのでしょうか。金利は長期にわたって歴史的低水準でした。技術がなかったわけでもありません。
答えのひとつは、身も蓋もないものです。**人が安かったから**だと思います。そして、ここが肝心なのですが、人が安かったのは賃金水準の問題だけではありません。**サービス残業、無償の要件定義、丸腰の暴力対応、時間外の保護者電話——こうした「計上されない労働」の分だけ、経営者から見た人件費の実効単価が、帳簿上の数字より低く見えていた**のではないか、というのが私の仮説です。
では、その「計上されない労働」はどれくらいの規模なのでしょうか。ここで、二つの数字を並べてみます。
ひとつは、労働基準監督署が監督指導によって是正させた賃金不払残業の金額です。厚生労働省の集計によれば、令和3年度に是正された事案は1,069社、支払われた割増賃金の合計は65億781万円でした。1企業当たり609万円、労働者1人当たり10万円という水準です。
もうひとつは、労働者側の自己申告です。連合が2015年に20〜59歳の雇用労働者を対象に行ったインターネット調査では、**4割強が「不払い残業をせざるを得ないことがある」と回答**し、その平均は一般社員で月18.6時間にのぼりました。
この二つの数字の落差が、私の言いたいことのすべてです。労働者の4割強が日常的に経験していると答える現象に対して、公式に是正され、金額として世に出るのは年間65億円です。氷山の水面下がどれほどあるのかは、誰も知りません。知らないまま、企業の損益計算書は作られ、設備投資の採算判断が行われてきました。
設備投資の意思決定は、機械のコストと人のコストの比較で行われます。人のコストが実際より安く見積もられていれば、機械は選ばれません。美徳という補助金は、この比較を歪めます。つまり文化は、資本装備率とは別の要因なのではなく、**資本装備率が低いままである理由の一つ**として作用しているのではないか、と私は考えています。
正直に申し上げれば、ここから先は未検証の仮説です。私はこの仮説を裏付ける計量的な研究を提示できていませんし、上に挙げた二つの数字も、落差の存在を示すだけで、それが投資判断をどれだけ歪めたかまでは語りません。ですから、私の主張はいまのところ「示唆」であって「実証」ではありません。
ただし、検証の道筋ははっきりしています。不払い労働と無償役務を実効的な人件費として繰り入れた場合の、設備投資の限界代替率の変化を推計すればよいのです。もし繰り入れても投資判断がほとんど動かないという結果が出れば、私の仮説は棄却されます。反証条件を持つ仮説である以上、「検証不能な文化論」という批判は、少なくともこの形の主張には当たらないと考えています。
反証に向き合った結果として、私の主張はこう修正されます。**日本の低生産性の直接の原因は投資不足であり、その投資不足を二十年にわたって持続可能にしてきたのが、美徳という名の補助金ではないか**。
## 第8章:美徳を捨てずに、補助金だけを止める
では、どうすればよいのでしょうか。
ひとつ、はっきりさせておきたいことがあります。処方箋は「日本人が優しさを捨てること」ではありません。そんな処方箋は実行不可能ですし、実行されても誰も幸せになりません。必要なのは、**善意を無償の資源として扱う会計と制度をやめること**です。優しさは残したまま、補助金の支給だけを止めます。それが現実的な目標だと思います。
順序をつけて申し上げます。以下の四つは並列ではなく、前のものが後のものの前提になっています。
**第一に、計上することです。** 改善の第一歩は、いつでも可視化です。無償で行っている要件定義、企画提案、アフターサービス、クレーム一次対応、時間外の連絡対応。これらを工数として記録し、金額に換算して、どこかの欄に書きます。請求するかどうかは次の段階でよく、まず「これは労働である」と認知することが決定的に重要です。認知されない労働は、削減もできなければ、投資対象にもなりません。前章で見た「年間65億円と、労働者の4割強」という落差は、ここが手つかずであることの直接の証拠です。
**第二に、切り出すことです。** 計上して初めて、何を外に出すべきかが判断できるようになります。第5章の思考実験を、ここで実装に移します。学校の保護者対応を、複数校を束ねる専門の外部窓口に移管します。病院の暴力対応を、訓練を受けた警備の専門職に移します。いずれも民間企業では当たり前の職掌分離ですが、行政の現場では「教育の放棄」「冷酷な合理化」というラベルを貼られやすいのが実情です。ここで必要なのは反論の言葉だと思います。**専門職を非専門業務から解放することは、サービスの放棄ではなく、サービスの保全です**。医師が負傷しないことは、患者のための投資にほかなりません。
そして、切り出しには段階があります。スクールロイヤーの例が示していたのは、**「助言する」と「代わりに立つ」のあいだに、非常に深い溝がある**ということでした。助言は現場の負担をいくらか軽くしますが、最終的に矢面に立つ人は変わりません。本当に効くのは後者です。都道府県で2.4%という交渉代理の数字を、せめて二桁に乗せること。それだけでも、教員が取り戻せる時間はかなりの量になるはずです。
**第三に、値決めを設計することです。** 原価に数%を乗せる価格設定から、相手にとっての経済価値から逆算する価格設定へ移行します。これは技術的には既知の話であり、実践している日本企業も存在します。ワークマンは、その好例として参照する価値があると考えています。同社の土屋哲雄氏が『ワークマン式「しない経営」』で描いたのは、ノルマを設定しない、残業しない、客を追わない、という「しないこと」の徹底でした。現場スタッフの愛想や気合いという「個人の美徳」に依存せず、データ分析に基づく自動発注と、自分で選んで買える売り場の導線設計という「仕組み」で売上を作ります。これは、美徳を仕組みに置き換えた実例だと思います。
**第四に、雇用のかたちを見直すことです。** 上の三つを個人の善意に戻さないためには、契約の形が要ります。濱口桂一郎氏が『ジョブ型雇用社会とは何か』で整理したように、日本の正社員制度は職務の範囲を限定しない「メンバーシップ型」を基本としてきました。職務が限定されないということは、**「これは私の仕事ではありません」と言うための言語を、制度が用意していない**ということでもあります。誰もが便利屋になり、専門性がすり減る素地は、精神論以前に雇用契約の設計に埋め込まれています。ジョブ型という言葉が成果主義の同義語として乱用されている現状は残念ですが、職務範囲を明示するという本来の論点は、この問題の中核に触れています。
そして個人のレベルでは、ひとつだけ実行可能な提案があります。**自分が無償で提供しているものを、一つ数えてみること**です。金額にする必要も、誰かに請求する必要もありません。ただ「これは本来、値札が付くはずのものだ」と自分で認識するだけで構いません。それを認識した人が増えれば、組織の会計は、遅れてついてきます。
## おわりに
日本の労働生産性が28位である理由を、私は「美徳という名の悪徳」に求めました。より正確に言えば、**自己犠牲を称賛する語彙が、設計責任者の意思決定コストを免除する補助金として機能し、その補助金が人件費の実効単価を過小に見せ続けた結果、機械とソフトウェアへの投資が二十年にわたって先送りされてきた**、という見立てです。
この見立てが完全に正しいとは思っていません。第7章で見たとおり、経済学の実証研究は、文化を持ち出さない説明でかなりのところまで到達しています。私の仮説は、その説明の背後にもう一層を加えることを提案するものであって、置き換えるものではありませんし、実証を経たものでもありません。
それでも、この視点には実用的な価値があると考えています。というのも、「DXを進めよう」「価格転嫁をしよう」という正しい処方箋が二十年間実行されなかったという事実は、処方箋の正しさではなく、**処方箋を実行しない誰かの合理性**を説明しなければ解けないからです。そして、誰かの合理性を可視化する道具として、「この美徳は誰の得になっているのか」という問いは、かなり切れ味がよいと思います。
最後に、ひとつだけ申し添えておきます。この論考は、現場で身を削っている人を責めるものではまったくありません。むしろ逆です。責められるべきは、その献身を計上せず、称賛だけで支払ってきた側です。称賛はコストがゼロなので、いくらでも供給できます。だからこそ、称賛は疑うに値します。
誰かが「ありがとう」と言ってくれたとき、その「ありがとう」が感謝なのか、それとも**請求書の代わりに手渡された紙切れ**なのか。それを見分ける目を、私たちはもう少し持っていいのだと思います。
ラ・ロシュフコーの筆を借りて、私なりに一行を書き足してみるなら、こうなるでしょうか。「感謝とは、支払いを免れた者が発明した、最も安価な通貨である」。念のために申し添えますが、これは『箴言集』にある言葉ではなく、私の作文です。ですが、彼ならこの程度の皮肉は笑って許してくれる気がしています。
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## 予想される反論と、それに対する見解
### 反論1:日本の生産性が低いのは円安と産業構造の問題であり、文化論は検証不能な俗流説明である
これが最も強い反論であり、私は第7章でこの点に正面から向き合いました。実際、ドル換算による目減りは計算上の事実ですし、深尾京司氏らの実証研究が示すように、日米格差の大半は資本装備率と全要素生産性の差で説明されます。文化を持ち出す必要は、統計的にはありません。
私の立場は、文化論で経済学を置き換えることではなく、**経済学が特定した変数の背後にある行動を説明する**ことです。「なぜ投資しなかったのか」という問いに、資本装備率のデータ自体は答えません。人件費の実効単価が帳簿より低く見えていたなら、投資の採算判断は歪みます。そして、この主張には反証条件があります。不払い労働・無償役務を人件費に繰り入れても投資判断がほとんど変わらないという推計結果が出れば、私の仮説は棄却されます。検証不能だという批判は、この形で提示された仮説には当たらないと考えています。ただし現時点で私が示せているのは反証条件までであり、実証そのものではないことは、率直に認めます。
### 反論2:不払い労働は労働基準法違反である。法執行の問題を文化のせいにするのは、行政の不作為への責任転嫁ではないか
これは、本論考の枠組みそのものを不要にしかねない、鋭い反論です。実際、サービス残業は違法であり、取り締まればよい。文化を持ち出すまでもない、という主張には強い説得力があります。
ただ、それでも文化の層が必要だと考える理由が二つあります。ひとつは、取り締まりの実効性の限界です。第7章で見たとおり、令和3年度に是正された賃金不払残業は1,069社・65億円であるのに対し、労働者の4割強が不払い残業を経験していると答えています。法は存在し、執行もされているのに、この落差が埋まりません。なぜ埋まらないのかを説明するには、労働者側が申告しない理由、管理職が黙認する理由に踏み込む必要があり、そこには「申請しにくい雰囲気」という、まさに文化的な変数が現れます。
もうひとつは、本論考で扱った事象の多くが、そもそも違法ですらないことです。医師が暴れる患者を止めること、教員が保護者の長電話を受けること、要件定義を無償で行うこと。これらは労働時間として計上されているかもしれず、その場合、労基法違反はどこにもありません。それでも、専門職が非専門業務を担うことによる社会的損失は発生しています。法の射程外にある非効率を扱うには、法とは別の言葉が要ると考えています。
### 反論3:自己犠牲や長時間労働は欧米にも存在する。日本固有だと言うのは誇張である
そのとおりです。米国の投資銀行やスタートアップにおける長時間労働、医療職のバーンアウト、教員の疲弊は、多くの先進国に共通します。私は「日本人だけが献身的だ」とは考えていません。
違いは献身の量ではなく、**献身の会計処理**にあると見ています。高報酬と引き換えに長時間働くことは、価格の付いた取引です。ストックオプションで報われるバーンアウトも、少なくとも名目上は対価が設計されています。日本で問題なのは、対価の設計そのものが「浅ましい」とされ、道徳的に禁止されている点です。同じ献身でも、値札の有無は生産性統計に直接効きます。
### 反論4:高生産性企業として挙げた例は、たまたま成功した少数事例のチェリーピッキングではないか
これは公正な指摘です。ワークマンのような事例は、業態特性や経営者の個性に強く依存しており、そのまま一般化できるものではありません。私も本文で、これらを「証明」ではなく「実例」として扱いました。
ただし、事例の役割は統計的証明ではなく、**実行可能性の証明**にあると考えています。「現場の美徳に依存しない運営は日本では無理だ」という主張に対して、無理ではない例が国内に存在することを示します。反例として一件あれば足りる種類の論点です。一般化の根拠としては弱く、可能性の根拠としては十分である、という整理をしています。
### 反論5:現場の献身こそが日本の品質と信頼を支えてきたのではないか。それを否定すれば、日本の強みまで失われる
半分は同意します。緻密な擦り合わせと現場の当事者意識は、製造業の競争力の実体であり、これを損なうことは損失です。
同意しないのは「献身を計上すること」と「献身を失うこと」を同一視する点です。私が主張しているのは、献身をやめろではなく、**献身に値札を付けろ**ということです。値札を付けた献身は消えません。むしろ、持続可能になります。無償を前提とした献身は、担い手が倒れた時点で終わります。看護職について22.4%の施設で労災適用があり、5.6%の施設で休職者が出ているという数字は、すでに供給が限界に来ていることを示しています。強みを守りたいのであれば、なおのこと計上すべきです。
### 反論6:職掌を切り分ければ、現場は冷たくなり、サービスの質は落ちる
これは、この種の主張に対して最も頻繁に向けられるラベルです。しかし、第3章で見た精神科の例は逆のことを示しています。制圧役と治療役を分離すれば、医療者は味方の位置から治療に戻れます。役割分離は関係性を破壊するのではなく、**関係性を保護する**技術です。
ここで重ねて申し上げておくと、切り分けの単位を誤れば、質はたしかに落ちます。CVPPPのように、身体的介入そのものがケアとして設計されている領域を、訓練を受けていない外部者に丸投げすれば、それは合理化ではなく事故です。問われるべきは「切り分けるか否か」ではなく、**どの線で切り分けるか**です。医療判断とケアは医療者に残し、初期の威圧対処と盾の役割は専門職に移します。線の引き方を議論せずに「冷たい」の一語で退けることが、私の批判している操作です。
より根本的には、「切り分けは冷たい」という直観自体を疑うべきだと考えています。誰が最も低コストかつ高い成果でそのリスクを処理できるか、という配置の問題を、温度の問題にすり替えること。それこそが、本論考で私が「悪徳」と呼んだ操作そのものです。
### 反論7:ではあなたは教員や医療者に「もっと断れ」と言うのか。それは弱い立場の人への負担の押し付けではないか
ここは私自身、慎重でなければならないと考えている点です。個人に「断れ」と要求することは、意識改革を要求する第6章の構造と同じ過ちを繰り返します。断る権限を持たない人に断ることを求めるのは、新種の自己犠牲要求にすぎません。
ですから本論考の処方箋は、第一に会計と制度に向けています。計上すること、切り出すこと、値決めを設計すること、雇用契約で職務範囲を書くこと。これらはすべて、権限のある側が行う作業です。個人に向けた提案は、最後の「無償で提供しているものを一つ数えてみる」だけに留めました。数えることには権限が要らず、しかし数えられた瞬間に、それは交渉可能な対象に変わるからです。
### 反論8:構造がそこまで強固なら、個人にできることは何もない。結局は無力ではないか
無力ではないと考えていますが、万能でもないことは認めます。
この構造の弱点は、**可視化に弱い**という点にあります。美徳という補助金が機能するのは、それが計上されず、議題にも上がらないからです。逆に言えば、金額として書かれた瞬間に、それは経営判断の対象になります。誰かが一度でも「この無償対応は年間○○時間、金額にして○○円です」と書けば、無審査だった補助金に審査が入ります。
構造が強固なのは、それが正しいからではなく、誰も数えていないからです。数えることは、権限がなくてもできます。私が個人の実践として提案できるのは、いまのところそこまでです。ただ、二十年動かなかったものを動かすには、まず帳簿に一行書くところから始めるしかないとも思っています。
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## 参考文献
### 書籍
- 『ラ・ロシュフコー箴言集』ラ・ロシュフコー著、二宮フサ訳(岩波文庫, 1989年)
- 『「空気」の研究』山本七平(文藝春秋, 1977年/文春文庫)
- 『管理される心——感情が商品になるとき』A.R.ホックシールド著、石川准・室伏亜希訳(世界思想社, 2000年)
- 『「失われた20年」と日本経済——構造的原因と再生への原動力の解明』深尾京司(日本経済新聞出版社, 2012年)
- 『ジョブ型雇用社会とは何か——正社員体制の矛盾と転機』濱口桂一郎(岩波新書, 2021年)
- 『ワークマン式「しない経営」——4000億円の空白市場を切り拓いた秘密』土屋哲雄(ダイヤモンド社, 2020年)
### 統計・調査・論文
- 「労働生産性の国際比較2025」公益財団法人 日本生産性本部(2025年12月22日公表)[https://www.jpc-net.jp/research/detail/007846.html](https://www.jpc-net.jp/research/detail/007846.html)
- 「教員勤務実態調査(令和4年度)の集計(確定値)について」文部科学省初等中等教育局(2024年4月4日)[https://www.mext.go.jp/content/20240404-mxt_zaimu01-100003067-2.pdf](https://www.mext.go.jp/content/20240404-mxt_zaimu01-100003067-2.pdf)
- 「教育行政に係る法務相談体制の整備等に関する調査(令和5年度間)」文部科学省初等中等教育局 [https://www.mext.go.jp/content/20250314-mxt_syoto01-000011909_01.pdf](https://www.mext.go.jp/content/20250314-mxt_syoto01-000011909_01.pdf)
- 「部活動改革及び地域クラブ活動の推進等に関する総合的なガイドライン」文化庁・スポーツ庁(令和4年12月策定/令和7年12月改訂)[https://www.bunka.go.jp/seisaku/geijutsubunka/sobunsai/93972201.html](https://www.bunka.go.jp/seisaku/geijutsubunka/sobunsai/93972201.html)
- 「監督指導による賃金不払残業の是正結果(令和3年度)」厚生労働省労働基準局 [https://www.mhlw.go.jp/bunya/roudoukijun/chingin-c_r03.html](https://www.mhlw.go.jp/bunya/roudoukijun/chingin-c_r03.html)
- 「不払い残業」日本労働組合総連合会(連合)/2015年調査 [https://www.jtuc-rengo.or.jp/activity/roudou/fubarai/](https://www.jtuc-rengo.or.jp/activity/roudou/fubarai/)
- 「看護職等が受ける暴力・ハラスメントに対する実態調査と対応策検討に向けた研究」厚生労働行政推進調査事業費補助金 厚生労働科学特別研究事業(2019年)[https://mhlw-grants.niph.go.jp/system/files/download_pdf/2019/201906002A.pdf](https://mhlw-grants.niph.go.jp/system/files/download_pdf/2019/201906002A.pdf)
- 本武敏弘「精神科病院における入院中の患者による看護師に対する暴力に関する研究」(日本健康医学会雑誌 28巻3号, 346-354頁, 2019年)[https://www.jstage.jst.go.jp/article/kenkouigaku/28/3/28_346/_article/-char/ja/](https://www.jstage.jst.go.jp/article/kenkouigaku/28/3/28_346/_article/-char/ja/)
- 「包括的暴力防止プログラム(CVPPP)指導者養成研修」国立研究開発法人 国立精神・神経医療研究センター [https://www.ncnp.go.jp/info/2018/cvppp.html](https://www.ncnp.go.jp/info/2018/cvppp.html)
- 「CVPPP(包括的暴力防止プログラム)について」愛知県精神医療センター [https://apmc.pref.aichi.jp/course/cvppp/](https://apmc.pref.aichi.jp/course/cvppp/)
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### 著者プロフィール
kentrue(yousystem)
フリーランスクリエイティブエンジニア/現代社会構造分析フリーク/ミュージシャン/ビジネス寓話創作者/思想家/キャバクラ愛好家
麗澤大学不合格、中央学院大学不合格、千葉商科大学不合格、城西国際大学不合格、
日本大学農獣医学部食品経済学科不合格、明治大学商学部二部不合格、
日本大学法学部法律学科二部不合格、神奈川大学不合格、法政大学二部不合格、
専修大学石巻短期大学部不合格、千葉経済大学不合格、
日本大学短期大学部合格、日本大学経済学部1年の留年を経て卒業
ハッシュタグ
#労働生産性 #美徳という名の悪徳 #ラ・ロシュフコー #自己犠牲 #職掌分離 #感情労働 #日本社会論 #設計責任
記事情報
公開日
2026-09-12 22:09:30
最終更新
2026-09-12 22:09:32