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ショートストーリー

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静かすぎる部屋

住宅設備の商社、東邦アメニティが「どこでもワーク制度」を始めたのは、十一月の初めだった。成績上位者は出社しなくていい。勤務時間も自分で決めていい。社内報には「頑張った人へのごほうび」と書かれていた。  第一号に選ばれたのは、営業二課の三浦遥だった。三十二歳、三期連続で課のトップ。昼休みには必ず誰かと弁当を広げ、電話口では取引先の担当者を笑わせる。 「いいなあ、昼寝し放題じゃん」  送別会のような飲み会で、同期がうらやましそうに言った。遥は「通勤の二時間で、もう一件回れるよ」と笑ってグラスを上げた。  もう一人、同じ日に制度の対象になった男がいた。情報システム課の篠田修一、五十四歳。会議の席ではいつも端に座り、ときどきイヤーマフをしている。付き合いが悪い、と陰で言われている人だった。  在宅の一週目、遥の数字は上がった。二週目も悪くなかった。三週目のある日、オンライン会議の画面に映った自分の顔を見て、遥は首をかしげた。朝から誰とも声を出して話していない。今日は玄関のドアを一度も開けていない。そう気づいたのは、夕方の四時半だった。  用もないのに、課のチャットに「お疲れさまです」と書き込んでみた。既読が三つ付いて、それきりだった。オフィスでは、隣の席の誰かが鼻歌をうたい、電話の向こうで取引先が笑い、それを聞くだけで背中が伸びていたのだと、遥は初めて知った。  夜、眠れなかった。昼に何を食べたかを思い出せなかった。それでも、遥は自分に言い聞かせた。こんなに恵まれた環境で調子を崩すなんて、甘えだ。  四週目の月次の出社日、営業部長の大槻が遥の席に来た。 「三浦、先月の後半、少し落ちてるな。家だと気が緩むか」 「いえ、大丈夫です」 「あの制度はごほうびなんだ。恵まれてるんだから、結果で返してくれよ」  遥は笑って頭を下げた。笑い方を、少し思い出すのに時間がかかった。  そのやりとりを、離れた島で篠田が聞いていた。昼過ぎ、篠田は珍しく営業部の会議室をのぞき、大槻に声をかけた。 「部長、ひとつだけ。あの制度、私には天国なんです」 「篠田さんは、そうだろうね」 「オフィスにいると、話し声と電話と『ちょっといいですか』で、一時間に何度も集中が切れます。家だと、気づくと部屋が真っ暗になっている。それくらい没頭できる」  篠田は少し間を置いた。 「でも、それは私の耳がたまたまそうできているだけです。誰とも話さない一日が、同じだけ楽な人ばかりじゃない」  大槻は腕を組んだまま、しばらく黙っていた。 「……三浦が、きついと言ったのか」 「言っていません。言わない人だから、聞いたほうがいいと思って」  その週の金曜、夕方三時のオンライン会議で、遥の画面はやけに暗かった。冬の日はもう傾き、部屋の明かりがついていない。会議が終わる間際、大槻が言った。 「三浦、ちょっと残ってくれ」  二人きりになった画面で、大槻は咳払いをした。 「頑張れ、じゃなくてな。……大丈夫か」  遥は答えようとして、言葉が出てこなかった。代わりに、うなずくでも首を振るでもない、小さな動きをした。  翌月、制度の説明文が一行だけ変わった。「出社か在宅かを、本人が週ごとに選べる」。遥は火曜と木曜に出社するようになり、昼休みにはまた誰かと弁当を広げた。篠田は相変わらず家にいて、ときどき社内チャットに短い返事だけを寄こした。  同じ静けさが、ある人には毛布になり、ある人には水の底になる。

論考

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恵まれた環境ほど、点検を忘れる

序:「ごほうび」は、本人にとってもごほうびか

在宅勤務、フレックス、昇進、栄転。組織が「良いこと」として用意する変化は、受け取る側も周囲も、喜ぶべきものとして扱いがちである。だが心身にとって、変化は良し悪しより先に「変化」として効く。人は、慣れた環境の手がかりを失うと、それを埋め直すために見えない労力を払い続ける。良い変化だから大丈夫だろうという思い込みが、不調の発見を遅らせる。

問い:自組織で「良い変化」と位置づけた施策のあと、対象者の体調や勤怠を追跡しているか。

展開:変化そのものが負荷になる

生活上の出来事をストレスの大きさで点数化した古典的な尺度として、ホームズとレイの社会的再適応評価尺度がよく知られている。そこには配偶者の死や解雇と並んで、結婚、引っ越し、休暇、さらにはクリスマスまでが並ぶ。共通するのは「いつもと違う」ことだ。働く場所や時間の自由化も、本人の生活の型を丸ごと組み替える出来事であり、周囲から羨ましがられる変化ほど、本人も弱音を吐きにくい。

問い:働き方の変更を、引っ越しや異動と同じ重さの「環境変化」として扱っているか。

反証:自由な環境は、多くの人に合うのではないか

もちろん、在宅や裁量労働で力を伸ばす人は多い。話し声や電話、差し込みの依頼で集中が何度も途切れるオフィスは、刺激に敏感な人にとっては、それ自体が大きな負荷である。そうした人にとって、誰にも話しかけられない一日は、失うものではなく取り戻すものだ。自由な環境は、一律に危険なのではない。

問い:オフィスの騒音や中断が、誰にとってどれだけの負荷になっているかを把握しているか。

再構成:問題は環境ではなく「一律」にある

同じ静けさが、ある人には集中の条件になり、別の人には孤立の始まりになる。人がつながりを求める度合いには大きな個人差があり、会話や外出のない日が続くだけで、眠りや食事、気分が崩れていく人もいる。つまり危ういのは在宅という形式ではなく、「この環境は誰にとっても良いはずだ」という一律の前提である。しかも不調は、真面目で、頑張りが利き、周囲の期待に応えようとする人ほど表に出にくい。

問い:制度の対象者が、その環境を自分で選び直せる余地はあるか。

示唆:「大丈夫だろう」から「大丈夫?」へ

管理職にできることは、環境を良し悪しで評価するのをやめ、人と環境の相性として扱うことだ。新しい働き方を始めた直後の数週間は、結果よりも睡眠、食事、会話の量といった生活の手がかりに目を向ける。そして「恵まれているのだから頑張れ」ではなく、「大丈夫?」と問いかける。言わない人ほど、聞かれるのを待っている。

問い:新しい環境に移った部下に、最後に「大丈夫?」と聞いたのはいつか。

実務への含意

  • 在宅化・昇進・異動など「良い変化」も、開始後1〜2か月は体調と勤怠を見守る期間として扱う
  • 働く場所や時間は、一律の特典ではなく、本人が定期的に選び直せる仕組みにする
  • 不調の兆しは成果より先に、会話・外出・睡眠などの生活面に出ると心得て、問いかけで拾う

参考文献

  • 『孤独の科学 人はなぜ寂しくなるのか』ジョン・T・カシオポ、ウィリアム・パトリック(河出書房新社)
  • 『内向型人間のすごい力 静かな人が世界を変える』スーザン・ケイン(講談社)
  • 『大事なことに集中する 気が散るものだらけの世界で生産性を最大化する科学的方法』カル・ニューポート(ダイヤモンド社)

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