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血液型占いは、なぜ死なないのか——ラベルという名の免罪符について
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## はじめに
私は血液型占いが嫌いです。MBTIも同じくらい嫌いです。あまりに嫌いなので、「More Than Labels」という曲まで作ってしまったほどです。人間をいくつかの箱に押し込めて、その箱の名前で相手を分かった気になる——そういう振る舞いに対して、私はずっと苛立ちを覚えてきました。
ところが、その苛立ちを抱えたまま長く生きていると、別の疑問が首をもたげてきます。それは「なぜ、これほど何度も否定されているものが、いっこうに死なないのか」という疑問です。
血液型性格判断への科学的批判は、昨日今日始まったものではありません。四十年以上にわたって、心理学者たちは繰り返し「関連はない」と実証してきました。批判は正しく、データは揃い、論文も書籍も出揃っています。にもかかわらず、令和の日本で、いまだに四割ほどの人が「血液型と性格には何か関係がある」と考えています。
普通なら、ここで「日本人は科学リテラシーが低い」と結論して終わりです。あるいは「くだらないものを信じるやつはバカだ」と一刀両断して溜飲を下げることになります。実際、世の中はおおむね「信じる派」と「信じずにバカにする派」の二極に分かれていて、両者は延々と同じ場所で睨み合っています。
けれども私は、その睨み合いの構図そのものが怪しいと考えるようになりました。四十年間まったく効かない批判というのは、たいてい、的そのものを外しています。撃っている弾が正確でも、撃つべき標的が別の場所にあるなら、命中率はゼロのままです。
本稿で私が主張したいのは、次の一点です。**血液型占いは「信じられている」のではなく「使われている」のであり、それは科学的信念ではなく、人間関係のコストを削減するための社会的プロトコルとして機能しています。** だからこそ、科学的な反証をいくら積み上げても、その勢力は落ちません。反証は信念を撃ちますが、実際に流通しているのは道具だからです。
論考の道筋を先にお示しします。第1章では、批判が正しく、かつ無力であるという事実を確認します。第2章では、血液型が信念ではなくプロトコルとして流通しているという見立てを提示します。第3章では、その中核にある「ラベルは貼られた側にも利益を配る」という逆説を掘り下げます。第4章では、その逆説がどこで破綻するのか——つまり自説の弱点——を正面から扱います。第5章では、この構造がMBTIという後継者に引き継がれ、タイパ・コスパの時代にむしろ強化されている様子を描きます。
念のため先に申し上げておきますが、これは血液型占いの擁護ではありません。私は最後まで「私は採用しません」と言い続けます。ただ、嫌いなものを嫌いなまま雑に扱うのは、知的にはあまり誠実ではないと思うのです。嫌いなものこそ、いちばん精密に解剖したい——そういう歪んだ愛情の話だと思っていただければ幸いです。
## 第1章:批判は正しかった。そして、無力でした
まず、事実関係をはっきりさせておきます。血液型と性格の間に関連があるかどうかについては、心理学の世界ではとうの昔に決着がついています。
決定的な仕事のひとつが、縄田健悟による2014年の研究です。日本と米国の大規模社会調査データを二次分析したもので、日本の2004年調査(N=2,878〜2,938)、2005年調査(N=3,618〜3,692)、米国の2004年調査(N=3,037〜3,092)を用いた、合計一万人規模の検証です。結果は明快でした。性格に関する68項目のうち65項目で血液型間に統計的有意差はなく、効果量(η²)はいずれも0.003未満でした。つまり血液型は、性格の分散の0.3%未満しか説明しませんでした。
0.3%未満というのは、実質的にゼロと言ってよい数字です。仮に有意差が出た残り3項目があったとしても、これほど大きな標本では実生活で意味を持たないほど微小な差でも統計的有意に達してしまいますから、「差がある」と呼ぶには値しません。統計的有意性と、実質的な意味の大きさは別物なのです。
この結論は突然出てきたものではありません。日本大学の大村政男は、長年にわたって血液型性格判断の歴史と実証を検討し続けてきましたし、佐藤達哉と渡邊芳之は1992年の時点ですでに、当時のブームとその心理学的研究を包括的にレビューしています。つまり、少なくとも三十年以上前から、専門家の側では「これは支持されない」という結論が共有されていたわけです。
では、その三十年で何が起きたのでしょうか。
野村総合研究所のインサイトシグナルが2016年に関東エリアの20〜59歳男女を対象に実施した調査によれば、血液型別性格診断を「信じている」「ある程度は信じている」と答えた人は全体の約40%でした。「信じていない」「まったく信じていない」が約40%、「関心がない」が約20%という構成です。つまり、明確な否定派と明確な肯定派がほぼ拮抗したまま、数十年が経過しています。
ここで立ち止まって考えたいのです。
科学的批判は、正確でした。データは十分でした。それを伝えるメディアもありました。にもかかわらず、支持率はほとんど動いていません。この状況を「日本人がバカだから」で説明するのは、説明として怠慢です。なぜなら、その説明からは何ひとつ次の行動が導けないからです。バカだから、で終わる説明は、言った本人が気持ちよくなる以外の機能を持ちません。
もっと生産的な問いはこうです。**「これほど効かない批判をしているということは、私たちは何か別のものを撃っているのではないか」**
私はこの問いを、真面目に追いかけてみることにしました。嫌いな対象について一番深くロジカルに分析してしまうというのは、われながら皮肉な構図ですが、面白いのだから仕方ありません。
## 第2章:それは信念ではなく、プロトコルです
血液型性格判断をめぐる議論が噛み合わない理由は、私の見るところ、単純です。**批判者は「命題」を撃っているのに、実際に社会で流通しているのは「命題」ではないからです。**
「A型は几帳面である」という文は、形式上は命題です。真か偽かが決まるはずの文です。だから科学者は、当然のようにその真偽を検証し、偽であると証明しました。ここまでは何の問題もありません。
しかし、日常会話のなかで「A型でしょ、几帳面だもんね」と言われるとき、話し手はほとんどの場合、世界についての真理を主張しているわけではありません。あれは命題の提示ではなく、**発話行為**です。もっと言えば、挨拶や社交辞令に近い何かです。
「お世話になっております」というメールの書き出しを、誰も真偽で評価しないのと同じことです。実際にお世話になっていなくても、その文の役割は「これから業務連絡を始めます」という合図を送ることだからです。
こう考えると、なぜ反証が効かないのかが見えてきます。プロトコルは真偽で評価されません。プロトコルが評価されるのは、**接続に成功するかどうか**という一点においてのみです。TCP/IPが「正しい」かどうかを問う人はいません。問われるのは、それで通信が繋がるかどうかだけです。
そして血液型は、日本国内において、驚くほど接続率の高いプロトコルでした。四種類しかないので覚えるのが容易です。誰にでも必ずひとつ割り当てられており、例外がありません。しかも医療や献血の文脈で自分の型を知る機会が多いため、事実上ほぼ全員が共通のIDを保有しているのに近い状態になっています。これほど接続コストの低い共通変数は、そう多くありません。
社会学者のアーヴィング・ゴッフマンは、『行為と演技——日常生活における自己呈示』において、人間の日常的な相互行為を演劇のアナロジーで捉えました。私たちは他者の前で、状況に応じた自己を「上演」しています。そこで必要になるのが、その場にふさわしい役柄の設定です。
問題は、役柄をゼロから設計するのがひどく高コストだという点にあります。初対面の相手に対して、自分がどういう人間で、どう扱ってほしくて、どんな距離感を望んでいるのかを言語化して伝えるのは、時間もかかれば失敗のリスクもあります。
血液型は、この設計コストを一撃で消し去ります。「私B型なんで」と言った瞬間、既製服のような役柄が場に投入されます。自由人で、マイペースで、細かいことは気にしない人物、という設定です。実際にその人がそうであるかどうかは、この際どうでもよいのです。重要なのは、その場にいる全員が「そういう設定でいきましょう」という合意にアクセスできることです。
山岸俊男は『安心社会から信頼社会へ』において、日本社会が長らく「安心」——閉じた関係のなかで相手が裏切らないことが構造的に保証されている状態——に依存してきたことを論じました。安心社会では、相手の人となりを見抜く能力よりも、関係を波立たせない技術のほうが価値を持ちます。相手が本当はどういう人間かを深く探る必要はなく、むしろ探らないほうが関係は安定するからです。
血液型プロトコルは、この環境に最適化された道具です。相手を分類しているように見えて、実は**相手を本気で分析しないための道具**なのです。分類は、探索の代替物として機能します。
ここまでが、第一の機能です。しかし私が本当に面白いと思っているのは、次の章の話です。
## 第3章:ラベルは、貼られた側にも利益を配ります
ラベリングについて語るとき、私たちはほとんど自動的に「貼る側」と「貼られる側」を、加害者と被害者の関係で描きます。権力を持つ者がレッテルを貼り、貼られた者はそれに苦しむ、という構図です。社会学のラベリング理論の基本的な図式も、おおむねこの方向を向いています。
しかし、血液型占いの現場を観察していると、この図式では説明のつかない現象に出会います。**貼られた側が、自分から進んでラベルを引き受けている**のです。
「私B型だからさ〜」と自称する人を、あなたも見たことがあるはずです。それは他人に押しつけられたレッテルというより、本人が積極的に着用している名札です。なぜ人は、自分を狭める箱に自分から入るのでしょうか。
私の答えは、こうです。**ラベルを受け取ることは、判断の責任を返上することだからです。**
具体的に考えてみましょう。ある集まりで、あなたが場の空気に合わない発言をしてしまったとします。ラベルのない世界では、この後の処理はなかなか大変です。自分の何が悪かったのかを検討し、相手がどう感じたかを推し量り、必要なら謝り、次からどうするかを考えることになります。これは思考としても感情としても、それなりの負荷です。
ところが、あなたに「B型」というラベルが貼られている世界では、処理は一行で終わります。「まあ、B型だからね」。この一言で、事案は個人の反省案件から、体質的な不可抗力へと格上げされます。台風で電車が止まったことを、誰も駅員の人格の問題として責めないのと同じ理屈です。
これは、責任の**外注**です。しかも極めて優秀な外注先です。血液型は生まれつきで、変更不可能で、本人の努力とは無関係です。責任を押しつける先として、これほど都合のよい対象はなかなかありません。誰も傷つかず、誰も反省せず、それでいて場は収まります。「和を以て貴しとなす」という原理に、これほど適合したシステムがあるでしょうか。
さらに一歩進めると、ラベルは**あらかじめ**主体性を放棄させる機能も持ちます。「B型だからマイペースでいいよね」と先に言われた人は、以後その場で「マイペースな人」として振る舞う許可を得たことになります。自発的に空気を読み、最適解を探し、失敗のリスクを引き受けるという面倒な作業を、丸ごとスキップできるわけです。相手の提示したキャラ指示に乗っかっていれば、省エネで生きられます。
ここで、ひとつ慎重にならなければならない論点があります。「ラベルによって、人の性格は本当に変わるのか」という問いです。
ロバート・K・マートンが『社会理論と社会構造』で定式化した「予言の自己成就」は、まさにこの現象を扱います。誤った状況規定であっても、それが信じられて行動が変われば、結果として予言のほうが現実になってしまうという現象です。血液型に当てはめれば、「B型は自分本位」と信じられた結果、B型の人が実際に自分本位に振る舞うようになる、という筋書きです。実際、山崎賢治と坂元章は1992年の日本社会心理学会大会で、長期の全国調査データの時系列分析から、この種の自己成就が起きている可能性を報告しています。
ただし、私はこの線に寄りかかりません。理由があります。
先に紹介した縄田の2014年の分析は、**自己申告による**性格項目を用いたものです。もし自己成就が社会規模で広く生じているなら、自己申告の性格記述にこそ血液型差が現れるはずです。「自分は自分本位だと思う」と答えるB型が有意に多くなる、といった形で現れるはずなのです。ところが実際には、68項目中65項目で差が検出されませんでした。つまり、自己成就が仮に存在するとしても、その効果は一万人規模の調査で拾えないほど小さいということになります。
ですから私の主張は、もっと控えめな形をとります。血液型が変えているのは**性格そのものではなく、振る舞いの説明様式**です。人が実際にどう行動するかは、ほとんど変わっていません。変わっているのは、その行動を事後的にどう語り、どう帳尻を合わせるかという、言い訳の文法のほうです。
この区別は重要です。性格が変わるという主張は実証で反証されますが、言い訳の文法が変わるという主張は、実証で反証されていません。そして日常生活において、私たちの人間関係を実際に動かしているのは、性格そのものよりも「その行動をどう説明し合うか」のほうだったりします。
まとめれば、こうです。血液型占いの効用は「当たる」ことではありません。**当たっていなくても機能する**ことにこそ、その本質があります。貼る側は相手を分析する労力を節約し、貼られる側は判断と責任を返上します。摩擦が起きれば双方が血液型のせいにして、誰も傷つかずに場が閉じます。人間関係の摩擦と思考のコストを削減するための、実によくできた緩衝材です。
嫌いなものについて、ここまで褒めてしまうと自分でも笑ってしまいますが、機能として優れていることと、私がそれを採用することとは、まったく別の話です。
## 第4章:不利なラベルを配られた人は、どうしているのか
ここまでの議論には、正面から向き合わなければならない弱点があります。私はそれを隠したくありません。
第3章で私は「ラベルを受け取る側にも利益がある」と論じました。だとすれば、どの血液型の人も、おおむね等しくこのシステムを歓迎するはずです。ところが、データはそうなっていません。
先に挙げた野村総合研究所の2016年調査には、興味深い付随所見があります。**B型の人において、血液型性格診断を「信じている」割合が統計的に有意に低い**というのです。
これは私の説にとって、率直に言って痛い事実です。B型は「自分本位」「マイペース」「空気を読まない」といったラベルを配布されている側です。私の理屈が正しければ、B型の人はむしろ喜んでこの免罪符を受け取るはずでした。ところが実際には、彼らは他の血液型より冷淡なのです。
ここで説を撤回するのは簡単ですが、私はもう少し粘りたいと思います。この不整合は、私の説を壊すというより、**説に欠けていた変数を教えてくれている**と考えるからです。
その変数とは、**ラベルの配布は平等ではない**ということです。
同じ「責任の外注装置」であっても、配られるラベルの内容によって、支払う代価がまったく違います。A型に配られる「几帳面」「真面目」は、社会的にほぼ無害です。むしろ職場では褒め言葉として通用します。O型の「大らか」も同様でしょう。ところがB型に配られる「自分本位」「変わり者」は、名誉のコストを伴います。AB型の「二重人格」「何を考えているか分からない」に至っては、ほとんど排除の予告です。
つまりこのシステムは、**便益を多数派に、コストを少数派に配分することで成立している**わけです。日本におけるA型の比率はおよそ40%、O型が30%に対して、B型は20%、AB型は10%です。人口構成の多い側が「無害なラベル」を受け取り、少ない側が「不名誉なラベル」を引き受ける構図です。この非対称は偶然ではないでしょう。多数派が納得する分類でなければ、そもそも普及しないからです。
そう考えれば、B型の懐疑率が高いのは、私の説の反証ではなく、**むしろ説の精密化**です。ラベルが免罪符として機能するのは、それが安価な場合だけです。高価なラベルを配られた人は、免罪符を受け取るより、システムそのものから降りるほうが合理的になります。
もっとも、公平を期すために書いておくと、この所見には別の説明も成り立ちます。B型はネタにされる頻度が突出して高いため、単純にうんざりして反発しているだけだ、という読み方です。あるいは、否定的なラベルを与えられた集団が、その分類自体の正当性を疑うようになるのは、血液型に限らず起きる一般的な反応かもしれません。私はこれらの説明を排除できる材料を持っていません。ただ、どの説明を採ったとしても、「B型だけが余分なコストを払っている」という事実そのものは動きません。そして、そのコストの偏りこそが、私の言いたかったことでもあります。
そして、ここから先は擁護の余地がまったくない領域に入ります。
配布コストが不均等な分類は、実害を生みます。日本には「ブラッドハラスメント(ブラハラ)」という言葉があります。血液型を根拠に相手を決めつけ、不快な思いをさせたり不利益を与えたりする行為を指す言葉です。厚生労働省は公正な採用選考の観点から、本人に責任のない事項を採用判断に用いないよう求めており、採用面接での不適切な質問例として「血液型・星座は何ですか」を明示的に挙げています。行政が名指しで禁じるということは、実際にそれが行われてきたという意味です。
ここで、本稿の立場をはっきりさせておきます。
**機能を説明することは、正当化ではありません。**
私は血液型占いが合理的に機能してきたと論じました。しかしそれは「だから続けてよい」という意味ではまったくありません。むしろ逆です。あるシステムが実害を伴いながらしぶとく生き延びているとき、そのシステムを止めたいなら、まず**それが何の役に立っているのか**を正確に把握しなければなりません。役に立っていないものを人は使い続けませんし、機能を理解せずに「非科学的だからやめろ」と言っても、代替手段のない人はやめようがないからです。
四十年間、科学的批判が効かなかった理由は、まさにここにあります。批判は「その道具は壊れている」と言い続けてきました。しかし使っている人にとって、その道具は壊れていません。ちゃんと動いていたのです。動いているものを「動いていない」と言われても、聞く耳を持ちようがありません。
有効な介入があるとすれば、それは「もっと安価で、配布コストが平等で、実害の少ない代替プロトコルを提示すること」でしょう。そして実は、市場はすでにその代替品を用意しています。
## 第5章:MBTIは、血液型占いの正統な後継者です
近年、若い世代を中心にMBTI(マイヤーズ・ブリッグス・タイプ指標)が急速に広まりました。「あなたは何タイプ?」というやりとりは、かつての「何型?」とほとんど同じ位置を占めています。
心理測定の観点から見れば、MBTIの評価は血液型より少しましという程度です。1993年にPittengerが行った批判的検討では、連続的な特性を無理やり二分する類型化の妥当性と、時間をおいて再検査すると型が変わってしまう安定性の低さが指摘されています。少なくとも、採用や配置の判断根拠として使えるほどの精度は認められていません。
これに加えて、心理学ではよく知られた現象がもうひとつ働いています。誰にでも当てはまる曖昧な記述を、自分だけに当てはまる正確な描写だと感じてしまう傾向——菊池聡が『超常現象の心理学』などで繰り返し解説してきた、いわゆるバーナム効果です。「あなたは社交的な面もありますが、一人の時間も必要とします」と言われて反論できる人はまずいません。タイプ論の記述が「よく当たる」と感じられる理由の相当部分は、ここで説明がついてしまいます。
しかし私が注目したいのは、精度の話ではありません。**MBTIは、血液型占いが抱えていた設計上の欠陥を、見事に修正している**という点です。
第4章で述べたとおり、血液型プロトコルの最大の弱点は、ラベルの配布が不平等で、しかも本人が選べないことでした。B型に生まれた人は、生涯B型のラベルを剥がせません。免罪符が高価すぎる人にとって、このシステムは端的に不利です。
MBTIは、この二つの欠陥を同時に解決しました。
第一に、**自分で選べます**。診断を受けるのは自分であり、質問への回答も自分が行います。気に入らない結果が出れば、別の日に受け直せば違う型が出ます。自分に都合のよいラベルを、自分の手で調達できるのです。
第二に、**どの型にも貧乏くじがありません**。MBTIは公式の説明においても「型に優劣はない」という立場をとっており、16タイプそれぞれに肯定的な物語が用意されています。「希少で洞察力に優れる」「発想力に富む」といった具合です。B型のような不名誉ラベルが、構造的に存在しないのです。
つまりMBTIは、血液型占いから「責任の外注機能」と「関係構築コストの削減機能」だけを継承し、「不平等な配布による不名誉コスト」を取り除いた、**改良版プロトコル**なのです。よくできています。よくできているからこそ、広まりました。
そして、この改良版が急速に浸透した時代背景も見逃せません。
稲田豊史は『映画を早送りで観る人たち』において、コンテンツを倍速で視聴し、あらすじだけを先に確認し、失敗しない消費を追求する現代の作法を丹念に描き出しました。そこで語られているのは、時間対効果——タイパ——を最優先する価値観です。
この価値観を人間関係に適用すると、何が起きるでしょうか。
本来、他者を理解するプロセスは途方もなく非効率です。何度も会い、話し、誤解し、修正し、時間をかけて距離感を測ることになります。しかも、それだけ投資しても関係が続く保証はありません。投資対効果という物差しを当てれば、これほど分の悪い活動もありません。
タイプ論は、この非効率を一撃で解決します。四文字を交換した瞬間、百段階の相互理解プロセスをスキップして、仮の人間関係を即座にデプロイできます。しかも「自分は何者か」を説明する手間まで省けます。深く知り合うという最もコストの高い作業を、徹底的に削ぎ落とした人間関係の倍速再生です。
ここに、本稿でいちばん皮肉な結論が置かれます。**血液型占いは、時代遅れの迷信ではありませんでした。それはむしろ、タイパ・コスパ時代の作法を数十年先取りしていた、早すぎた発明だったのです。** かつて居酒屋のテーブル越しに交わされていた「あんた何型?」というやりとりは、令和のタイパ至上主義の原型だったわけです。
だとすれば、ラベルへの需要は今後減るどころか、増えていくと予想するのが自然でしょう。人間関係の流動性は高まり、初対面の機会は増え、一つひとつの関係に割ける時間は減っていきます。オンラインでのやりとりが増えれば、非言語的な手がかりは減り、代わりに自己紹介用のタグへの依存が強まります。
科学的批判が四十年勝てなかった相手は、これから追い風を受けます。私はそう見ています。
## おわりに
ここまで、血液型占いがいかによくできたシステムであるかを論じてきました。それでも私は、これを採用しません。理由を最後に述べます。
私が採用しない理由は、「非科学的だから」ではありません。もしそれだけが理由なら、私は毎朝の占いコーナーにも文句を言わなければならなくなります。そんな窮屈な生き方をするつもりはありません。
私が採用しない理由は、**ラベルを使うと、その人に会わずに済んでしまうから**です。
「B型だから」と言った瞬間、私はその人と会う機会をひとつ失います。目の前にいる、名前があり、履歴があり、その人だけの理屈で動いている一人の人間の代わりに、私は自分の頭のなかにある四分の一の抽象と会話することになります。効率は上がります。しかし、そこにいた人は消えます。
私が「More Than Labels」という曲で言いたかったのは、たぶんそういうことでした。ラベルを超えていけ、というのは道徳的な要請ではありません。もっと即物的な話です。**ラベルの向こう側にいる人のほうが、圧倒的に面白い**、というだけのことです。
深く知り合うには、コストがかかります。時間がかかり、誤解が生まれ、傷つくこともあります。タイパは最悪です。けれども、そのコストを支払うという行為そのものが、相手を「処理すべき情報」ではなく「一人の人間」として扱っているという、唯一の証明になるのではないでしょうか。省略しないことが、敬意の実体です。
もちろん、すべての人に対してそれを実行するのは不可能です。私たちの時間は有限で、出会う人の数は多すぎます。ですから省略は必要です。私自身、初対面の相手を職業や見た目で雑に分類しています。そこは正直に認めます。
問題は、省略しているかどうかではありません。**省略していると自覚しているかどうか**です。
「B型だからさ」と言うとき、その一言は何かを省略しています。相手の事情を聞くことを、自分の非を検討することを、そしてこの関係をどうしたいのかを決めることを、まとめて省略しています。省略それ自体は罪ではありません。ただ、省略していることを忘れると、私たちは「分かった」と「分かった気になった」の区別を失います。そして一度その区別を失うと、二度と取り戻せません。
最後に、この論考を書きながら、私は何度か吹き出しました。血液型占いを心底嫌っている人間が、世界でいちばん真剣にその合理性を分析している——この構図の間抜けさは、なかなかのものです。
けれども、それでいいのだと思っています。信じて思考を止めるのでも、バカにして思考を止めるのでもなく、「なぜこれはしぶとく生き残っているのか」と一段メタな場所から構造を読みにいく——この面倒くさい態度こそが、ラベルで思考停止している側には決して味わえない、ささやかな特権なのですから。
あなたの次の「何型?」は、何を省略しようとしているでしょうか。
## 予想される反論と、それに対する見解
### 反論1:合理性を説明することは、差別の擁護になりませんか
もっとも警戒すべき指摘だと思います。「機能があるから存続している」という説明は、容易に「機能があるのだから存続してよい」という規範命題にすり替わります。
しかし私は、この論考のなかで一貫して逆の立場を取ってきました。第4章で述べたとおり、あるシステムを止めたいなら、それが何の役に立っているかを正確に把握しなければなりません。機能の分析は、介入の前提条件です。
代替手段を用意せずに使用中の道具を取り上げるのは、介入ではなく単なる説教です。そして説教は、四十年間まったく効きませんでした。
### 反論2:ただの雑談を、深読みしすぎではありませんか
これが、本稿にとってもっとも痛い反論です。正直に申し上げれば、私にはこの反論を完全に退ける材料がありません。
「何型?」というやりとりの大半は、天気の話と同程度の意味しか持たない、純粋な社交でしょう。そこに「責任の外注」「主体性の返上」といった重い読解を持ち込むのは、過剰解釈だという批判は成り立ちます。本稿の中核的な主張——ラベルが言い訳の文法として機能しているという説——は、私の観察に基づく仮説であって、統制された実証を経たものではありません。この点は明確に認めます。
そのうえで、ひとつだけ反論させてください。純粋な社交にすぎないのであれば、血液型間で信じる割合に有意な差が出る理由が説明できません。挨拶であれば、誰にとっても等しく無害なはずです。ところが実際には、不利なラベルを配られた側で懐疑率が上がります。この非対称は、そのやりとりが単なる社交を超えて、何らかの利害を伴っていることを示唆しています。
### 反論3:縄田の研究は自己成就を支持していないのだから、あなたの説は破綻しているのでは
この批判は、私が第3章で自ら書いたことと同じ内容です。むしろ、指摘していただけるとありがたいと思っています。
だからこそ私は、主張を弱い形に絞りました。血液型が変えているのは性格そのものではなく、振る舞いを事後的に説明する文法のほうだ、という形にです。実際の行動傾向が変わっていないからこそ、一万人規模の調査で差が出ないわけです。そして、実際の行動が変わらなくても、「その行動をどう説明し合うか」が変われば、人間関係の運用は十分に変わります。
もし「言い訳の文法」という水準でも変化が存在しないと実証されたなら、そのときは本稿の第3章は破棄されるべきです。反証の条件は明示しておきます。
### 反論4:ラベルによる分類は日本特有ではありません。星占いもMBTIも世界中にあります
そのとおりです。人間を類型化したいという欲求は、おそらく普遍的なものでしょう。
日本に特有なのは、類型化そのものではなく、**変更不可能で全国民に割り当て済みの生物学的変数**を使っている点です。星座も生年月日で不変ですが、日本における血液型ほどの浸透度と会話上の使用頻度には達していません。そして自分で選べない変数を用いる以上、不利なラベルを配られた人には逃げ場がありません。第5章で述べたとおり、MBTIはまさにこの点を改良して普及しました。
つまり日本の事例が特殊なのは、類型化の存在ではなく、その**逃走不可能性**にあります。
### 反論5:「ラクだから使っている」という説明は、人を見下していませんか
これは自分でも気になっていた点です。「彼らは楽をしたいのだ」という説明は、書き手が高みに立つ構図になりがちです。
ですから確認しておきますが、私は自分がこの構図の外にいるとは思っていません。私も初対面の相手を職業で分類しますし、複雑な事象を単純な図式に落として理解した気になっています。認知資源の節約は人間の基本仕様であって、欠陥ではありません。
本稿が批判しているのは、省エネそのものではなく、省エネしていることを忘れる状態です。そしてそれは、私自身にも等しく向けられた警告です。
### 反論6:では代替案は何ですか。全員と深く付き合うのは不可能です
不可能です。完全に同意します。
代替案として私が提示できるのは、プロトコルの廃止ではなく、**プロトコルに賞味期限を設けること**くらいです。初対面の五分間で使うのは構いません。むしろ有用でしょう。問題は、その五分間の仮設定が、三年後もそのまま使われ続けることです。
仮の枠組みで接続し、接続が成立したら枠組みを捨てる——この「捨てる」工程が省略されたときに、ラベルは便利な足場から、動かせない檻に変わります。
### 反論7:血液型のおかげで自分を肯定できた人もいるはずです
いると思います。「AB型だから変わっていると言われるけれど、それでいいんだ」と思えたことで救われた人は、間違いなく存在するでしょう。その救いを軽んじるつもりはありません。
ただ、ひとつだけ申し上げたいことがあります。その自己肯定の根拠が事実でない場合、その肯定は条件つきになります。血液型が性格を決めるという前提が崩れた瞬間、自己肯定の足場も一緒に崩れてしまうからです。
「AB型だから変わっていてもいい」より、「私は変わっているし、それでいい」のほうが、足場としては頑丈です。遠回りに見えますが、崩れない床の上に立つほうが、結局は長く立っていられます。
### 反論8:科学的批判が四十年効かなかったなら、批判をやめるべきだということですか
いいえ、まったく違います。批判は続けるべきです。実証データは公共財であり、採用選考や医療現場のような、実害が発生しうる領域では決定的に重要です。厚生労働省が採用選考での血液型質問を不適切として挙げているのも、この蓄積があってこそでしょう。
私が申し上げているのは、批判の**射程を正しく認識すべきだ**ということです。科学的反証は、制度的な使用を止める力を持ちます。しかし、飲み屋の雑談を止める力は持ちません。前者と後者は別の戦場であり、別の武器を要します。
科学は「それは真ではない」と示せます。しかし「それは不要である」ことまでは示せません。不要にするには、それが埋めていた穴を別の何かで埋めるしかないのです。
## 参考文献
※ 本記事にはアフィリエイトリンクが含まれています
- 論文:縄田健悟「血液型と性格の無関連性——日本と米国の大規模社会調査を用いた実証的論拠」『心理学研究』85巻2号, 148-156頁(2014年)[J-STAGE](https://www.jstage.jst.go.jp/article/jjpsy/85/2/85_85.13016/_article/-char/ja/)
- 論文:佐藤達哉・渡邊芳之「現代の血液型性格判断ブームとその心理学的研究」『心理学評論』35巻2号(1992年)[PDF](https://univ.obihiro.ac.jp/~psychology/pdf/satonabe1993.pdf)
- 書籍:『新編 血液型と性格』大村政男(福村出版, 2012年)[出版社ページ](https://www.fukumura.co.jp/book/b115253.html) / [Amazon](https://www.amazon.co.jp/s?k=%E6%96%B0%E7%B7%A8+%E8%A1%80%E6%B6%B2%E5%9E%8B%E3%81%A8%E6%80%A7%E6%A0%BC+%E5%A4%A7%E6%9D%91%E6%94%BF%E7%94%B7&tag=digitaro0d-22)
- 書籍:『安心社会から信頼社会へ——日本型システムの行方』山岸俊男(中公新書, 1999年)[Amazon](https://www.amazon.co.jp/s?k=%E5%AE%89%E5%BF%83%E7%A4%BE%E4%BC%9A%E3%81%8B%E3%82%89%E4%BF%A1%E9%A0%BC%E7%A4%BE%E4%BC%9A%E3%81%B8+%E5%B1%B1%E5%B2%B8%E4%BF%8A%E7%94%B7&tag=digitaro0d-22)
- 書籍:『行為と演技——日常生活における自己呈示』アーヴィング・ゴッフマン著/石黒毅訳(誠信書房, 1974年)[出版社ページ](https://www.seishinshobo.co.jp/book/b87561.html) / [Amazon](https://www.amazon.co.jp/s?k=%E8%A1%8C%E7%82%BA%E3%81%A8%E6%BC%94%E6%8A%80+%E3%82%B4%E3%83%83%E3%83%95%E3%83%9E%E3%83%B3&tag=digitaro0d-22)
- 書籍:『社会理論と社会構造 新装版』ロバート・K・マートン著/森東吾ほか訳(みすず書房)[Amazon](https://www.amazon.co.jp/dp/4622097052?tag=digitaro0d-22)
- 書籍:『映画を早送りで観る人たち——ファスト映画・ネタバレ・コンテンツ消費の現在形』稲田豊史(光文社新書, 2022年)[Amazon](https://www.amazon.co.jp/dp/4334046002?tag=digitaro0d-22)
- 書籍:『超常現象の心理学——人はなぜオカルトにひかれるのか』菊池聡(平凡社新書, 1999年)[出版社ページ](https://www.heibonsha.co.jp/book/b162975.html) / [Amazon](https://www.amazon.co.jp/s?k=%E8%B6%85%E5%B8%B8%E7%8F%BE%E8%B1%A1%E3%81%AE%E5%BF%83%E7%90%86%E5%AD%A6+%E8%8F%8A%E6%B1%A0%E8%81%A1&tag=digitaro0d-22)
- データ:「信じる?信じない?血液型別性格診断」野村総合研究所 Insight Signal(2016年)[URL](https://www.is.nri.co.jp/report/short-research/2016/000171.html)
- 学会発表:山崎賢治・坂元章「血液型ステレオタイプによる自己成就現象——全国調査の時系列分析」日本社会心理学会第33回大会発表論文集, 342-345頁(1992年)
- 論文:Pittenger, D. J. "Measuring the MBTI... And Coming Up Short", *Journal of Career Planning and Employment*, 54, 48-53(1993年)
- 参考:「社会心理学と『血液型性格判断』の関連」日本社会心理学会 [URL](https://www.socialpsychology.jp/pr/jssppr/topics/bloodtype_socpsy/)
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### 著者プロフィール
kentrue(yousystem)
フリーランスクリエイティブエンジニア/現代社会構造分析フリーク/ミュージシャン/ビジネス寓話創作者/思想家/キャバクラ愛好家
麗澤大学不合格、中央学院大学不合格、千葉商科大学不合格、城西国際大学不合格、
日本大学農獣医学部食品経済学科不合格、明治大学商学部二部不合格、
日本大学法学部法律学科二部不合格、神奈川大学不合格、法政大学二部不合格、
専修大学石巻短期大学部不合格、千葉経済大学不合格、
日本大学短期大学部合格、日本大学経済学部1年の留年を経て卒業
ハッシュタグ
#血液型占い #MBTI #ラベリング #疑似科学 #タイパ #コミュニケーション #社会心理学 #責任の外部化
記事情報
公開日
2026-08-14 17:29:03
最終更新
2026-08-14 17:29:04