記事一覧
(180件)
ページ 1 / 9
値札のない適性
戸川がフリーランスになって五年になる。自宅の二階で、業務システムの開発と、解説記事や動画の制作を請け負っている。何時に起きても、どれだけ働いても、誰にも何も言われない。そこに辿り着くまでに、会社員のまま八年の助走が要った。
大学の後輩の宮下から「相談がある」と連絡が来たのは、十月の終わりだった。
...
三分に一度の前置き
取引先との接待の帰り、二軒目のスナックを出たころには、柏木はまっすぐ歩けなくなっていた。物流会社の課長、四十八歳。タクシー乗り場の手前で「一杯だけどうですか」と声をかけられ、次長の久保に「お前なあ」と呆れられながら、気づけばガールズバーのカウンターに座っていた。
ミナと名乗った二十二、三の女性は、...
棚を歩く人
「理由は三つあります」
佐伯遥斗がそう切り出すと、会議室の空気が少しだけ締まる。文具メーカー・丸野文具の企画部で六年目。話し方の本で覚えたこの型を、彼は武器にしてきた。第一に、第二に、第三に。言い切って、以上です。それだけで「仕事ができる人」に見える。
その日の議題は、彼が温めてきた新商品だった...
三行目の人
岸本が電子書籍の売上画面を開くと、見慣れない赤い帯が出ていた。「規約違反により、アカウントを永久に停止しました」。
食品メーカーの経理課に勤めて十八年。夜と週末に書きためた小さな実用書は、月に数万円を運んでくるようになっていた。何がいけなかったのか、問い合わせても定型文しか返ってこない。規約を隅ま...
百点の返事
「はじめまして。絶賛ダメリーマンの沢井です」
沢井がそう名乗ったのは、謙遜ではなかった。
中堅の部品商社に勤めて十一年。営業成績は真ん中より少し下で、会議ではまず発言しない。言われた仕事はこなすが、それ以上はしない。そのかわり、夜中に自宅で書いている在庫管理のプログラムには、自分でも驚くほどの熱...
光は七枚目から
株式会社ミナモ意匠の企画課長・宮園には、どうしても取りたいコンペがあった。駅前の古い商店街が、閉じた店のシャッター十二枚に絵を描く。市が再生事業として予算をつけ、地元の制作会社三社が案を競う。
困ったことに、社内でいちばん面白い案を出したのは、入社二年目の春日だった。
春日の下絵は、左端の一枚目...
減らすための稟議書
汐見信用金庫港北支店の融資係、高梨遥の机に、三輪製作所の借り換え申請が回ってきたのは、月末の夕方だった。
三輪製作所は従業員十二人の金属加工の町工場で、取引は先代のころから続いている。ファイルをめくると、この十年、借入残高のグラフは一度も下を向いていなかった。借り換えのたびに、少しずつ上乗せされ...
修理台帳の白いページ
株式会社ひだまり木工は、職人四人と事務一人の小さな家具工房だ。創業四十年、新しく作るより、直す仕事のほうが多い。
企画担当の水野遥は、三年前からひとつの計画を温めていた。閉校した町の小学校から譲り受けた、体育館の床材で大きな食卓をつくる。何十年も子どもたちが走り回った板には、消えないコートの線と...
夕方六時の石
東洋精工の営業企画課で、沢井航は毎晩いちばん最後に照明を消す人間だった。入社六年目。同期の何人かは主任になったが、自分にはまだ声がかからない。足りないのは熱意だと沢井は考えていた。だから誰よりも早く来て、誰よりも遅く帰る。それがいつか誰かの目に留まるはずだった。
四月、海外子会社から時任という課...
名人のバット
真壁透は、面接を終えたビルのエレベーターで、鏡に映るスーツの襟を直した。ポケットのスマートフォンには、四社目の不採用通知がまだ開いたままになっている。
中堅部品メーカー「東和精機」で経営企画のマネジャーを務めて八年。四十三歳。平日の夜と週末をすべて注ぎ込み、二年かけて社会人大学院でMBAを取った。...
三つ目の「なぜ」
業務用厨房機器メーカー、ミナカタ製作所の営業企画課で、岸本遥は資料の最終ページを睨んでいた。
主力の食器洗浄機「クリーンエース」の売上が、三期連続で落ちている。来週の部長会で、その原因と打ち手を報告するのが遥の役目だった。入社六年目、初めて任された大きな報告だ。ここで認められれば、新製品の企画チー...
平均値の棚卸し
「提携は成功している。それを一枚で見せてくれ」
経営企画部長の久保は、そう言って倉田沙織の机に分厚いファイルを置いた。中堅部品メーカー・三輪精機は、この十二年で十四社と業務提携を結んできた。来月の経営会議では、次の大型提携の承認がかかっている。久保の欲しいものは明快だった。「提携は効く」という一枚...
宛先違い
森下沙耶の名刺入れには、いつも「特別」が入っていた。
中堅の業務システム会社、ハルカゼ・システムズの営業三課。彼女の担当顧客は十二社あり、そのすべてが「森下さんは、うちを一番に考えてくれている」と信じていた。
「御社だけに先にお見せします」「この条件は、社内でもかなり無理を通しました」。言葉の...
四色の付箋
創業七十年の文具メーカー・白峰紙工の商品企画部で、宮下蓮は三度目の企画書を書き直していた。
提案したいのは、手帳を自由に飾るための「色付箋とシールのセット」だった。若い世代のあいだで、手帳を色とりどりに装飾する文化が静かに広がっている。蓮はそれを誰よりもよく知っていた。なぜなら彼自身、匿名のアカウ...
三枚目の企画書
午後十一時の商品企画部には、真柴葵のデスクだけが灯っていた。
モニターには企画書が三つ並んでいる。来月の社内コンペに出す冷凍総菜の新シリーズ案だ。規定では一人一案でいい。けれど葵は三案すべてを仕上げるつもりでいた。半年前のコンペで、彼女の案は最終選考の手前で落ちた。あのときの部長の短い沈黙が、まだ...
大きな池の、小さな机
真壁遥が本社の先端開発室に呼ばれたのは、入社五年目の春だった。
地方工場の設計課では、彼女は「困ったら真壁さん」と言われる存在だった。治具の不具合も、ラインの小さな改善も、誰より早く答えを出した。だから辞令を見たとき、胸が高鳴った。ようやく本当の勝負ができる、と。
先端開発室は、噂どおりの場所だ...
片付いた棚
コンプライアンス室長の槙原は、改革三年目の年次報告書の最終ページを開いていた。「重大案件:0件」。その一行を書くために、彼女は三年を費やしてきた。旧経営陣の退任、相談窓口の刷新、全管理職への研修。社内報には「風通しのよい会社へ」という見出しが何度も躍った。あとは役員会で承認を得るだけだった。
そ...
踊り場の三分
晴和精機の品質保証部が入る三階は、その春、二十年ぶりに壁を失った。役員が視察先で見てきた「風通しのいい職場」を再現したのだという。仕切り板は撤去され、固定席もなくなり、六十人がひとつの島でつながった。
加瀬理都は、その二週目にはもう限界を感じていた。
検査記録の照合は、数字を一桁ずつ目で追う仕事...
水曜日の空白
第一水曜日の午後二時。営業企画部の早瀬は、分厚い資料の束を抱えて第三会議室へ向かっていた。月例の部内会議は二時間。各課の数字を順番に読み上げ、質問はほとんど出ない。終わるころには夕方で、顧客に出す提案書は今夜も手つかずのまま持ち帰ることになる。
早瀬には、温めている企画があった。取引先の小さな工務...
十二階の窓
三ツ輪工機の本社十二階、会議室「桐」の窓は、建てられた日から同じ角度までしか開かない。鹿野俊介は、その細い隙間から入る風を背中に受けて、社長の板東と向かい合っていた。
「鹿野くん。うちの売り場は、この三十年で何が変わった」
「……厨房機器そのものは、ずいぶん良くなりました。洗浄機の水量は半分以下...
ページ 1 / 9